レオンとの出会い
「んっ……」
ビアンカの意識が戻ったのは全身に走る激痛からだった。目を開けるとそこに映ったのは不規則な模様が連なる木製の天井。右側の視界が利かないのは右目が開かないからか。
私、生きてるの?
右腕は……肩口に激痛を伴い動きそうもない。左腕が動く事を確認し顔に手を当てると包帯が巻かれているのだとわかる。
「よかった! 気が付いたかい?」
柔和な雰囲気を漂わせる男性の声。そう、それは声質こそ違うものの隊長を彷彿とさせる、そんな声。声の主はゆっくりと近づいて来た。
白い歯を見せて爽やかに笑う男は二十代半ばくらいか、優男な雰囲気だが背が高く肩幅の広い身体はいかにも頑強そうだった。
「無理して起き上がらない方がいい。暫くは絶対安静が必要な重傷だ」
「ここはどこですか、あなたはカナンの人間ですか」
口調こそ丁寧だが敵意を剥き出しにして早口に捲し立てるビアンカ。左の茶褐色の瞳は相手を刺すように鋭い。
「落ち着いて。僕は君に危害を加える気はないよ」
「関係ありません、あなたがカナンの人間である以上……ッ!!」
痛む身体を無理に起こしたビアンカは思わず身を翻した。かけられていた布がはだけた下から現れたのは包帯こそ巻かれているが裸だったからだ。
「あ、あぁ……すまない」
男は顔を逸し申し訳なさそうに頭を掻いた。僅かに頰を朱に染めている。
「包帯を巻くのに勝手をした。脱がして手当することはできたのだけど……着せる事はできなくて」
「私の服は……どこですか?」ビアンカは背を向けたまま問う。
「う、すまない。君の服は脱がす際に切ってしまったんだ。代わりを用意するまで、僕の服で良ければ」
「それで、私を手当したのは拷問に耐え得る体力を回復させる為でしょうか?」
「拷問って」
「それよりまず先に女としての尊厳を奪う為? 確かに今の私は抵抗すらままなりません。尤もそんな辱めを受けるくらいならば舌を噛んで死にますが」
「落ち着いてくれ。僕は君に危害を加える気はないんだって」
「そんな言葉を信じられるとでも? カナンの人間であるあなたの? 無理な話です。悪魔にこの身を汚されるぐらいなら一思いに」
「しッ! 静かに!」
鬼気迫る様子でビアンカの言葉を遮った男は身を潜めながら窓の外を覗うと、慌ててビアンカに駆け寄る。
「軍部の人間だ。僕は絶対に君を悪いようにはしない。僕を信じてくれ」
それだけ告げると返事も待たずに一人外に出ていく男。ビアンカとしては男の言を信用するしない以前に、息を潜めている事しかできない。
もし、あの男が私を軍部に引き渡そうとするならばーー。
ビアンカは自らの命を絶つ覚悟を決めた。
聞き耳を立てると外からは複数人の話し声。
「このような場所にお越しとは、足労でしたね。お元気そうで何より。何かありましたか?」
「お前も変わりなさそうだな。実は敵兵が一人上から飛び降りてな。念の為死体の確認をしに参ったのだが」
「あの高さから落ちたのでしたら生きてはいないでしょう。死体もないとなれば川に落ちて下流へ流されたのでは?」
「う……む、であろうな。いや何、死んでいるのは確実なのだ。深手を負ったまま我々に捕まるまいと自ら死を選んだのだからな。敵ながら見上げたものよ」
壁に阻まれて聞き取りにくいが、ビアンカはその男の声に聞き覚えがあった。それは先の戦いで奇襲を仕掛けた際に幕舎内で聞いた指揮官と思しき声。
「ヴェリア王国との戦争はどうなったのですか?」
「双方に被害が甚大でな。ヴェリアもこれ以上戦いたくなかったのだろう、敵の指揮官と私の間でひとまずの停戦がなった。我々も先の戦いの大敗が癒えぬままでの今回だ。現場の身としては停戦はお互いに望むべき事であった。無論、王たちは違うであろうがな」
停戦と聞き、ビアンカの心の中に安堵の感情が広がる。ビアンカの奇襲が失敗に終わり、その後どうなったのかが気掛かりであったが、隊長たちは無事なのだ。
「左様でございましたか」
「それより、お前はどうなのだ? いつまでこのような場所で隠居生活を送るつもりだ? 私が指揮を採りお前が戦えばカナンは盛り返せる」
「私などがいなくても、カナンには兄上さえいれば安泰ですよ。私はもう、戦いに身を投じたくないので」
「……死なせてしまった事を、まだ悔いているのか」
その問いに対する答えはないまま男は続けた。
「一つだけ言っておくが、助けられなかったのはお前の責任ではない。責任を追求するのならば、むしろ……」
「ありがとう。兄上」
「……何時でも戻って来い。カナンの人民はお前の事を待っている。ではな」
複数の足音が遠ざかり徐々に聞こえなくなる。
「不安な思いをさせたね」と男は朗らかに笑いかけながら家の中へ戻って来た。
「私は、なぜ助かったのですか?」
身体に布を巻いたビアンカが男を見据える。しかしその目に宿る敵意は先程よりかは幾分か和らいでいるようだった。
「それは奇跡的にと言う他ないかな」
ビアンカの変化に気付いたレオンもほっと息を吐く。
「君は所々崖に打ち付けられながら落下した為に、矢傷の他にも肋骨や足も折れていた。今訪ねてきたのは僕の兄なんだけど、兄は鋭い人でね。死体がないにも関わらず死を断定するという事は助かる可能性なんてほぼ無いと見たんだろう。僕だって君を発見して息があることがわかった時にはとても驚いた」
聞きながらビアンカは男を観察するが、確かに敵意を感じられない。だが今しがたの会話を聞いた上でその態度はむしろ違和感を生む。
「それともう一つ、先程の会話を聞かせていただきました。その上で思うことがあります」
「なんだい?」
「敵の軍人である私をなぜ匿うような真似をするのです」
その問いに男は一瞬目を丸くすると、困ったような表情を浮かべながら頭を掻いた。
「君には失礼かもしれないけど、僕は君みたいな女性が戦場に立つ世の中は狂ってると思っている。だから、君が戦争なんかで命を落とす事はないと、そう思ったんだ」
感情の起伏に乏しいビアンカであるがその実、経験に則った上で他人の感情を読み解く能力には長けていた。
この人は私を誰かに重ねている。そして、この人の言う戦争で死なないで欲しかったのは、おそらくさっきの会話の中の。
「あなたの……名前はなんとお呼びすればいいですか」
ビアンカは男に尋ねた。おそらく、ビアンカがカナンの人間の名前を自ら訊いたのは初めてのことであった。
男は表情晴れやかに「僕はレオン。レオン・バッハシュタインだ。え、と。君は?」と名乗り、ビアンカに質問を返す。
「ビアンカ……。ビアンカ・シュミット」
カナンの人間に名乗る事も、ビアンカにとって初めての事であった。