闘う理由
満月が浮かぶ夜。レオンとビアンカは向かい合って、今では当たり前となった二人で囲む夕食を摂っていた。しかし専ら喋るのはレオンばかり。ビアンカは明るく振る舞うその様に、相槌を打ち小さく微笑む程度に留まる。
「ビアンカの怪我も大分よくなったね。……祖国に帰れる日も近いだろう。もう少しの辛抱だから焦らず完治させようね」
ビアンカを気遣うレオンの優しさが嬉しい反面、その優しさが罪悪感という傷に塩を塗るように染みて、堪らなくいたたまれなかった。
「ビアンカ?」
食事もそこそこに席を立つビアンカ。訝しげに声をかけるレオンに対して「沢に……水を汲みに行ってくるわね」とチラと薄く笑って見せる。足を引きずりながら出ていくその背中を、レオンが心配そうに見つめていた。
夜も更けた川のほとりで、ビアンカは水面に揺れる満月を呆然と眺め佇んでいた。ふと顔をのぞき込ませると、月光に照らされた水面にはビアンカの顔が映しだされる。
反射する自らの顔を見たビアンカは「ひっ!」と小さく悲鳴を上げたかと思うと仰け反り後退った。包帯の巻かれた右目を潰さんばかりに掌底を強く押し付け、荒い呼吸を繰り返す。
この碧眼が堪らなく忌々しかった。どうせなら目蓋に留まらずこの右目も潰れてくれればよかったのにと思う。
レオンと知り合ったことによりカナンは悪魔の国という根幹が覆され、代わりに知ったのはカナンもヴェリアと何ら変わらない人たちが暮らしているという事実。
献身的な治療を施され真摯な振る舞いを欠かさないレオンと接するうち、ビアンカが今までに何千回と悪魔と断じたカナンに対する憎しみの鎖は徐々に解けていった。
そうなってしまえばビアンカの中に押し寄せるのは自分が今まで行ってきた事に対する途方もない罪悪感だった。
「隊長……カナンの人々は悪魔ではありませんでした」
家族を戦争で失ったビアンカにとってカナンを悪魔と断じて戦う事が自らの存在意義であり使命だった。この碧眼も悪魔たちを屠る為に神が与えた特別な力だと信じていた。
だが実際は違った。悪魔と決め付け殺して来た人々にはビアンカがそうであったように愛する家族がいたはず。少なくともレオンの恋人を無残にも殺害したのは紛れもない事実。
ビアンカは思うのだった。
私が戦う理由は何? 戦争だから敵を殺すのは仕方がない? カナンは悪魔だと信じていたのだから不可抗力? いや違う……私が戦う理由はそうではない。それはあくまで建前だ。私が目指したのは、私のような悲しい思いをする子をなくす事。子どもたちが笑って暮らせる世の中にする事。それなのに……。
「うっ、うぅ、隊長……。私は今まで何の為に戦っていたのですか? 私は、いったい……うっ、うぅぅ」
「ビアンカ……」
嗚咽を洩らすビアンカの耳に優しく響く声が背後から降りかかる。涙に濡れた茶褐色の瞳を向ければ、そこにはレオンの姿。レオンはゆっくりと歩み寄ると、ビアンカの震える体をそっと抱き締めた。
その優しいレオンの温もりに包まれながら、ビアンカの心は拒否の言葉を叫ぶ。
やめて…………やめて、レオン。私に優しくしないで。私なの……あなたの恋人を殺したのは私。その事を知ったらあなたは私に優しくしないでしょう? 殺したいほど憎むでしょう? だから、やめて……。
心の声とは裏腹にビアンカの体はレオンの優しさを拒否できないでいた。抱えきれない程の罪の意識に潰されそうなビアンカにはそれを振り払う術はなかったのだ。
耳元でレオンが優しく、そして真剣に囁く。
「ビアンカ……君はもう、僕のもとを離れるな」
言葉の意味がわからずビアンカはレオンの胸に埋めていた顔を僅かに上げた。
「君はヴェリアに戻ればまた軍人として戦場に立つのだろう。だけど、もういい。もういいはずなんだ。確かに、君の家族はカナンとの戦争で死んでしまった。だけど君は僕と出会い、カナンの人間が悪魔ではないと知った。これ以上、憎しみに身を委ねないで欲しい。だって君の見せる涙が罪悪感の涙だということを僕はわかっている。だから、もう戦う事はやめよう。そしてどうか」
レオンはビアンカの顔を真っ直ぐに見つめた。
「これからもずっと僕と一緒にいて欲しい。僕に、君を守らせてくれないか?」
沈黙ーー。
男性からこのような告白を受けることはビアンカにとって初めての事だった。頭の中でレオンの言葉を反芻するが、ビアンカが思ったのは、何? 何なの? レオンは一体何を言っているの? という、未知の経験に対する戸惑いだった。
それはラファエルが自らに向けてくれる慈愛の心と似て非なる感情。それをビアンカの知り得る知識だけで補い出した結論。
レオンは……私の事が好き?
そう意識した途端にレオンの真っ直ぐに向けられる視線を正面から見られなくなった。同時に心臓がとくとくと強く鼓動する。
でもそれだけはいけない。それだけは絶対に無理だ。
だけど、レオンの真剣な告白には誠意を以って応えたい。応えなければならない。
「レオン、ありがとう」
レオンは抱擁を解き、ビアンカの続く言葉を黙って待つ。
「明日、応えるわ。あなたの気持ちに、私の本心で」
ビアンカの声はいつもの落ち着きを取り戻していた。それは覚悟を伴ったからこその冷静さだったのかもしれない。
レオンは吊り上げていた目尻を歪曲させて笑みを浮かべると「わかった。さあ、水は僕が持とう。まだ、無理してはいけない」とビアンカを気遣うのだった。




