共感とは何か
多数決は民主主義の基本原理です。
それは1番多くの人が『正しい』と思ったことが選ばれるので、正確には本当に客観的に正しいことが選ばれるわけではありません。
言い換えれば『1番多くの人に共感されたもの』が選ばれるわけですよね。
たとえば即席ラーメンを5商品だけ残してあとはすべて生産中止にしようとかなったら、私の1番の推しである『マルタイ棒ラーメン』は生産中止になるでしょう。
あれはたぶん関東では売ってないし、今ネットで即席ラーメン人気ランキングを見ても9位でしたので。
6位の『出前一丁』も惜しまれつつ生産中止です。
ちなみに1位から3位までは私にとっては是非生産中止になってくださいというものばかりが占めていました。
私は変わり者なのでしょうか。
多数派の人とは共感し合うことができない、民主主義の中の落ちこぼれなのでしょうか。
ある有名人さんの言葉に『一番売れているラーメンが美味しいラーメンなら、一番美味しいラーメンはカップラーメンだ』という言葉があります。
私にはとても共感できる名言です。
でももしかしたらこれに共感しない人のほうが大多数なのでしょうか?
とはいえこの言葉を仰った方は、ある部門でトップに立ってらっしゃる方です。その方が大人気ということは、私は多くの人と共感し合うことの出来る人間だということなのでしょうか……。
なんなんだろう。
よくわからない。
テストの問題で、難しい問題に正解する人は少数派です。
それを正解出来る人はよく勉強している人であり、抜きん出ている人だということになります。
でも多数決で正解を出すなら、間違えた人のほうが正しいということになる。
正確にはもちろんそれは正しいのではなくて、間違えた人が1番多くの人に共感されることになる。
結局難問の正解者は『俺らとは違う世界の人間』と見られ、共感できないからと敬遠されることになる。
学者さんでも一般庶民にわかる言葉で説明できない人は共感を阻むので嫌われます。
でも、学者さんが膨大な知識と教養と研究の末に得たものを、そんなに簡単に庶民がわかる言葉で説明できるものでしょうか?
私は自称車の運転のプロですが、自分が失敗を重ねて経験して来た上で身につけたものを初心者さんに簡単に説明することは不可能だと思っています。
そこには私と同じ体験をしていること、鳥瞰視点が使いこなせること、危険予測のポイントについて熟知していること、果てはアクセルペダルの踏み方やブレーキを使わずに走行することの意味などについて、初心者さんにも同じ『教養』のようなものが求められるからです。
簡単に説明出来たとしても、簡略化されたものからは最も肝心なことが抜け落ちていて、便宜上簡単にするための歪つなものになってしまうと思います。
簡単な言葉で庶民に解説してくれる学者さんよりも、私は庶民を無視してひたすら自分の研究に没頭する学者さんのほうに共感します。そういう方の本をこそ読みたいです。
チンプンカンプンだろうけど。
『プロ』の意味には大きく分けて2種類があると思います。
専門的な仕事をこなして、わかる人にだけ認められるプロと、万人に理解しやすい仕事をこなして、庶民から支持されるプロ。
どちらももちろん立派ですが、前者のプロは大多数から共感されないので、知名度も人気も後者に大きく劣るように思います。
一部のマニアックな人がわからないなりに憧れる対象になるのは前者だと思いますが。
どちらも立派で、どちらも大切なんだと思います。
でも民主主義社会では、共感されるものだけがもてはやされる。
多数決クソ食らえって思います。
こんな私は共感されない人でしょうか?