追話 杏ジャム
溢れた涙がポロポロと頬を伝った。
どうしてなのか自分でもわからない。朝食の時にお義母様が何気なく言った『今日で半年なんて早いわね』という言葉が胸にずーんとのしかかってきたのだ。
結婚式から丁度半年。本当にあっという間だった。だから『早いわね』って言葉が出たのはごく自然で悪意なんてどこにもない。
それでもどんより落ち込んでいる自分が嫌で私は泣いていた。
きっと疲れているんだと思う。オードバルの体制が代わりファルシアにも大きな影響があった。その為に一気にやらなければならないことが増え手一杯な日々が続いていたのだから。
何だか食事をするのすら疲れてしまう。咀嚼して飲み込むのが面倒でたまらない。でも食欲がないのではなくおなかは空く。そして私が猛烈に求めるのは杏のジャムだった。
このところ義両親も忙しいから食事は各々が部屋でっていうのが続いていたし、リードは国境警備の確認の為辺境伯に会いに行って、昨夜遅く二週間振りに戻ったばかりだ。皆で顔を揃えたのは久し振りで、だけど何を見ても食べたくなくて顔色の冴えない私を皆が気遣わしそうに見ていた。以前私が衰弱したことがよっぽどのトラウマなんだろう。
そこに何気ない『半年』って言葉を掛けられて、私は逃げ出すようにダイニングをあとにした。メソメソ泣きながら、でもお腹が空いてリリアに杏ジャムを頼んだ。
「どうしたの?僕の奥さん?」
リリアが来たかと思ったのに掛けられたのはリードの声で思いっきりがっかりだ。でもリードの手には杏ジャムが握られていた。
「杏ジャムなんてどうするの?」
どうするの?どうするのって食べる以外の何があるの?
「食べちゃ悪い?」
「え?悪くはないけど……ジャムを食べるの?そのまま?」
「駄目なの?」
ぽかんとしているリードがムカつく。ぼんやりしていないで早く杏ジャムを渡してくれないかな?私お腹が空いているの。貴方は何にも食べない私の横でハムやら卵やらチーズやらパンやらサラダやら、美味しそうに召し上がっていらしたから満腹なんでしょうけれど、私実は何も食べていないのよ!
イライラしながらジャムを受け取り蓋を開け、既に持っていたスプーンで中身を掬って口に入れた。私の好みに会わせて料理長が作ってくれる果肉がゴロゴロ残った杏ジャム。ここ数日私はこれ以外食べていない。
「僕の奥さんがジャムしかたべないって、しかも尋常じゃない量のジャムを食べてるって料理長に言われても意味がわからなかったけど、なるほどこういうことだったのか!」
リードは真剣な顔で私を覗き込んだ。
「どうして食事をしないんだ?」
「食べたくないんだもん」
「ジャムばかり食べているからだろう?」
「杏ジャム美味しいもん!」
「ジャムじゃなくきちんとしたものを食べるんだ。また体調を崩したらどうする?」
「だって面倒臭くてたまらないのよ!口に入れたものを噛んで飲み込むのが」
リードは絶句しきゅうっと目を吊り上げた。
「何を言ってるんだ!ふざけるのもいい加減にしろ!」
「ふざけてなんかいないわ。本当の事を言ってるだけよ!」
リードの怒りは怒鳴り合う私たちをオロオロしながら見ていたリリアにも波及した。
「こんな事を黙って許すなんてリリアもリリアだ。駄目なものは駄目と言わないからどんどんわがままになるんだぞ」
「ちょっと!リリアを叱らないでよ!杏ジャムを食べたのは私じゃない!」
「だ、だけどリセの食事の管理もリリアの仕事だ」
「リリアも料理長も用意はしてくれているじゃない!食べないのは私なのに…………リリアを怒るなんて酷い……」
ポロンポロン。溢れてくる涙を拭いながら私はメソメソと泣いた。
「どうして泣くの?」
「どうしてどうしてってリードはそればっかりだけど、説明したって聞いてくれない。もうリードなんか嫌い。大っ嫌い!」
「ど……なんでそうなるんだ?」
「言い方を変えたって駄目よ。どうせ何を言っても聞いてくれないんだもん」
とうとう泣きじゃくり始めた私をリードは途方にくれたように見ていた。
「ごめんリセ、頭ごなしに言い過ぎたね。僕はただ、僕の大切な奥さんが食事をせずに身体を壊さないか心配でたまらないんだよ。お願いだからジャムじゃなくてもっと食事らしい食事をしてくれないか?」
「ジャムが……杏ジャムが食べたいのに……それだけなのに……」
あー、イライラする!最近どうも感情が高ぶってちょっとしたことで泣いちゃうのにもうんざりだ。もっとこう、落ち着いた余裕のあるエレガントな王太子妃になりたいのに、私ときたらいつもキャパ一杯で四苦八苦なんだもん。
「もうやだ。王太子妃やだぁ」
「ちょっと、どうしたのリセ?何を言い出すの!」
「王太子妃なんて……やめたい……」
「リセ……杏ジャム一つでどうしてそうなっちゃうの?」
杏ジャム一つで?杏ジャム一つでって言ったの?杏ジャム、私を虜にする杏ジャム、愛してやまない杏ジャム。
それを貴方は……杏ジャム一つでと……
ムキーっ!リードめ!なんてヤツだ!
「もう良いわ。リードは何にもわかってなんかくれないもの。私にとって杏ジャムがどんなに大切な存在かなんて、リードには理解できないのよ!」
「そりゃそうだよ、普通そうだよ……」
リードは目を閉じてこめかみをグリグリと揉みながら呟いた。
「妃殿下、ほ、ほら。料理長がカスタードのタルトに杏ジャムを乗せてくれましたよ。これなら召し上がれるんじゃありませんか?ね、ね、食べてみましょう?」
リリアにトレイを託した料理長が不安そうにドアの隙間から覗いている。でもね、料理長。私はあなたの料理に不満はないのよ。あなたの杏ジャムの虜になっているだけで。だからあなたは自信を持って私に杏ジャムを食べさせてくれたらそれで良いのに……。
「ほら、一口食べてごらん?はい、あーん」
張り付けた笑顔のリードがフォークに乗せたタルトを私に差し出した。サックリしたカスタードのタルトにたっぷり乗せられている杏ジャム。それだよそれ。その乗っている杏ジャムが欲しいのよ。
王太子妃はそれすらも赦されないの?
私は涙を飲んで口を開けフォークに乗ったタルトを口に入れられ……
えずいて洗面所に駆け込んだ。




