悪魔の鏡
「未熟な倅がとんでもない失態を……心よりお詫び申し上げます。本当に申し訳ございません」
兄さまと一緒にやって来たアルブレヒト様の父で先代のお抱え魔法使いエタイことジェローデル侯爵が拳を震わせながら頭を下げている。思わず駆けよった私は膝をついてジェローデル侯爵の顔を見上げた。
「ごめんなさい。わたくしが悪いのです。アルブレヒト様が案じて下さるのを当たり前みたいに受け取って甘えていたから……どうぞお直り下さいませ」
兄さまにも促されやっと頭を上げたジェローデル侯爵は疲れが顔に滲み出ている。
「妃殿下の温情には感謝の言葉もございません」
「いいえ、全てわたくしの責任です。アルブレヒト様は強い使命感をお持ちであったが故に取り乱されたのでしょう。お礼なら機転を効かせて穏便に済ませたリリアに言ってやって下さらないかしら?本当に気の利く良い侍女で、リリアの取り計らいがなければ今頃アルブレヒト様は監獄に入れられておりましたわ」
ジェローデル侯爵に崇めるように見つめられリリアは珍しくもじもじした。一瞬だけ睨まれたけどこのくらいの根回しならしても良いよね?
「で、兄さまはどうして城に?」
「相変わらずうちの可愛い妹はご挨拶だね。俺は閣下と共に義弟に呼び出されて会ってきたんだがな」
「義弟?…………あぁ!殿下のこと?!」
確かに兄さまから見た続柄は義弟だけどイメージ湧かないよね。
「殿下が一体何の用事で?アルブレヒト様の事は伝わっては居ないのよね?」
「倅は魔力あたりの治療の為に屋敷に戻り殿下もそのように認識されている、と言うことに表立ってはなされております」
魔力あたりって言うのは湯あたりみたいなもので魔力が溜まりすぎちゃって身体に異変が起こっている状態。症状は湯あたりそのもので若手の魔法使いが起こしがちなんだって。
それはそうと表立って……ってどういうこと?それならリードは何の用で二人を呼び出したりしたんだろう?
「リセを守って欲しいと殿下は言われた」
「…………はぁ?」
なんなのよ、今頃突然。私が二度も殺されそうになっても知らん顔していたくせに。しかも犯人と堂々とイチャコラしている前代未聞のクズ夫が!
私の心で罵詈雑言の嵐が吹き荒れているとは露知らず、ジェローデル侯爵は優しく柔らかな表情で口を開いた。
「倅の言うとおり殿下に魔術の形跡はありません。ですが帰国された殿下からは奇妙な気配を感じておりました。特にあの空虚な瞳です。氷のように冷ややかで何の感情をも宿さない。恐らくは魔術以外の何かに囚われているのでしょう」
『だから元気を出すんですよ』って言いたいのよね、たぶん。
「あれは、殿下の本心ではない、そう仰るのですか?」
「えぇ。妃殿下の封印と同様に心を操るものは魔術だけではないのです。妃殿下の場合は御自分の強い想いが引き起こしたもの。ですがわたしが見る限り殿下は何か物理的な障りの有るものに支配されかけていると思われます」
この世界には魔法が存在する。それならば魔法以外の何かがあっても不思議ではない。現に私の中には確かに秘密箱があって更にその中には大切な何かを封印しているのだ。
でも……リードを支配しようとしている物理的なものって、それは一体どんな……
兄さまに『とりあえず座ろうか』と言われ私達はソファに腰を降ろし、お茶を淹れ終わったリリアにも私の隣に座ってもらった。
「昼間だというのに殿下が待っていた部屋は光を遮って夜のように暗かった。小さなろうそくの灯り一つが灯るだけでね。何事かと戸惑う俺達に殿下は言ったんだ。『瞳に光を受けると自分を見失ってしまうんだ』とね。世界が色を変え醜悪で忌まわしいと思っていたものが美しく愛しいものに見え、大切な存在が忌まわしく憎らしく感じる。そして心臓が凍ってしまいそうほど冷たくなり激しく痛むのだそうだ」
「……それって……悪魔の鏡?!」
「正解だ」
兄さまはご満悦で私の頭をぐしゃぐしゃと乱暴に撫でているがそんなのに構ってなんかいられない。私は急いで頭の中を整理した。
『悪魔の鏡』……それは雪の女王に連れ去られた少年を探すため幼馴染みの少女が旅をするお話に出てくる鏡。悪魔が作った鏡の破片が眼と心臓に刺さり豹変した少年は雪の女王に見いられて連れ去られてしまう。美しいものは縮こまり醜いものはより醜く見えたその鏡を『燕』の作家は殿下の言うように書き換えていた。それにもう一つ、少年は再会した少女を忘れたのではなく厭わしく思い拒絶する。でもそれを悲しんだ少女が流した涙で破片が流れ落ち二人は『永遠』を完成させて雪の城を出て家に帰る、という結末はオリジナルと同じ。
「オードバル第二王子の葬儀に参列した殿下はエレナ王女に呼び出され待ち合わせ場所に行った。流石に兄を亡くしたばかりの王女を邪険には扱えないからね。その時王女は酷く歪んだ鏡を持っていて殿下の顔を見るなりそれを床に叩きつけて割ったそうだ。殿下は両目と胸に激しい痛みを覚え倒れ意識を失った。そして目覚めた時には王女に抱きかかえられていた」
兄さまはそこで口を閉じ凄く申し訳無さそうな顔をした。それだけでもう何も言われなくても続きが予想できたけれど、だからって私は別に何も感じない。目覚めたリードがエレナ様に恋をした、それが悪魔の鏡のせいで良かったとも、それでも裏切られるのは悲しいとも。
私の心は一本の張り詰めた糸みたいに少しも揺らぎはしなかった。




