リセ
荒々しい足音が近付いてくる。エレナ王女が来てから気の休まる暇が無いとうんざりしつつわたしは持っていたペンをそっと下ろして顔を上げた。
リードの顔は蒼白だった。あら?お怒りで真っ赤になっていらっしゃるかと思ったら……必死に笑いを噛み殺した。人は本当に怒った時にはこんな顔色になるみたいね。
「どうしてエレナにナイフを握らせたっ!」
キリキリと尖った声を投げつけてくるリードににっこりと満面の笑みを浮かべたわたしはスッと表情を消し目を反らした。
どうしても何もない。わたしの言うことなんて信じないのに。リードは理由を聞いているのではない。ただひたすらわたしを詰る為にここに来たのだ。
「申し訳ございません。ナイフを手にされるとは思いませんでしたので」
それだけ言うとわたしはペンを手に取って視線を手元の書類に戻す。婚儀に伴って計画された幾つもの記念事業はわたしの仕事をさらに増やしていた。何がおめでたいものか。当の本人は雑務に追われて毎日寝不足だというのに。
「どうしてエレナの手が届く所にナイフがあったんだ!それこそが危険だと言うことが何故わからない!!」
鋭い語気で責め立てられたわたしは顔を上げてリードをまじまじと見た。この人はわたしが何をしているのかわからないのだろうか?理不尽なお説教なら王妃様から散々されてきた。そのせいで余計に仕事が押しているのにそれでもエレナ王女の為にわたしに一言言ってやらなければ気が済まない、そういうこと?
「そうですね、そんな事すら考えられなかったわたくしに全面的に非がございました。以後十分注意いたします。申し訳ございませんでした。これでよろしいかしら?」
「リセっ!」
「まぁ!」
わたしはわざとらしく目を見開いた。
「お忘れになったかと思っておりましたわ、わたくしの愛称なんて!ですがわたくしたちの関係性はあの頃とは違うようですもの、どうぞ無理なさらずアンネリーゼとお呼び下さい。それにフローリストナイフでしたら……」
声が詰まって話を続けられず顔を背けてわたしはギュッと目を閉じた。けれども小さく息を吐き直ぐに凪いだ表情を取り戻してリードに向き直った。
「もう手元にはなくなりましたので二度とエレナ様がお怪我をなさることはございません」
「……なぜだ?」
「王妃様にお聞きになったらいかがでしょう?」
フローリストナイフは処分するからと取り上げられた。けじめをつけたとオードバルに示さなければならないそうだ。どうかそれだけはと……兄から贈られた大事な物なのだと懇願したが聞き入れては貰えなかった。物には代わりがあるけれど人には代わりなどいないのだから我慢なさいと。でも、本当にそうなのかしら?
だって、わたしの代わりならいるではないか。早くすげ替えて差し上げたら良いのだ。あの人もそうしたくてウズウズしているのだから。それにあの人だけじゃなくて両陛下だって、それに殿下だって……。
苛立ちが表情に出るのを抑えようと唇を引き結び俯いたけれど、耐えられずに勢いよく立ち上がったわたしの後ろで座っていた椅子が倒れ派手な音を立てた。それでももう一秒だってリードと顔を合わせていたくはなくて、わたしはそのまま執務室を飛び出した。
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小さな切り傷だったエレナ王女の怪我は直ぐに治った。治療に当たった医師がこっそりとした耳打ちによると、良く手入れされたナイフでスパッと切った傷口だったから余計に治りが速かったのだろうということだ。
それに反してわたしの胸にできた傷は癒える気配がなく余計に深くなっていた。この状況下にも関わらず迫っている婚儀の準備に追われるストレスにどんどん追い詰めてられているのだろう。
気忙しく落ち着かない日々だったが、出来上がりつつある花嫁衣装を見た時だけは着飾る事にさほど執着しないわたしの胸もときめいた。落ち着いたアイボリーホワイトのドレスに縫い留められた真珠は控えめだが艷やかな輝きを放っている。試着をしたわたしの頬は思わず嬉しさに染まっていた。
たがその微笑みは直ぐに消え当惑に眉が顰められた。賑やかな声が聞こえてきたかと思ったら案の定エレナ王女と侍女達が現れたのだ。いつものように何の断りもなく、わたしなんかに先触れは不要とでも言うように。
「……ぷっ!」
エレナ王女は言葉よりも先に吹き出した。
「可愛らしいこと!本当にお似合いね。しかも真珠だなんて……随分と控えめなのね。貴女にピッタリじゃないの」
クスクスと笑うエレナ王女につられてエレナ様の侍女達もニヤニヤ笑いだした。
エレナ王女の胸元にはルビーのペンダントが下がっている。大きなルビーをぐるりと囲む眩く輝くダイヤモンド。その華々しさにもくすむことの無い堂々とした気品溢れるエレナ王女の存在感。
エレナ王女ならば眩しい程の純白のドレスに無数の宝石を散りばめるだろう。そして隣に立つリードはその美しさに目を細めるに違いない。
わたしはそう思った。