竜胆
頬にぬるい風が触れた。頬から肩、肩から腰、腰から足。徐々に感覚が戻ってきた。
目の感覚は戻った。だけど、目を開けるのが怖い。あの真っ黒な空間にいるのかもしれないという不安で仕方がない。
声が聞こえてきた。聞き覚えのある声。懐かしくて切なくて、どこか温かみのある声。
僕は1人じゃないんだ。
反射的に目を開けていた。光が眩しくて目が痛い。けど、それぐらいの方が、いや違う。僕は暗い方が落ち着くのに、どうして。
「……っ……!」
僕の左側にあなたが居た。何故ないているんだ?訳の分からない状態で混乱した。こんな再会なんて腑に落ちないなぁ。
「ごっ……ごめんなさ……ゲホっ……」
盲た君の瞳からは霞んだ涙が沸いている。僕に謝っているのか?そもそもここはどこなんだ。
すると突然白衣を着た男……医者?
「樋口さん。聞こえていますね。ここは病院です。体は起こせますか?」
体を起こす?当然の動作に何故確認をとるんだ。
僕は体を起こした。
「……?」
起こせない。痛い。
「無理に起こさなくても大丈夫ですよ。無理言ってすみません。あぁ。もうしばらくしたら事情を説明します。事前の説明として言うと樋口さんあなたは事故にあったんです。」
なんだって?僕はこっちの世界に行く途中にミスをして真っ黒な空間に閉じ込められて死んだんじゃ……。
「彼女は……まぁ説明は後で。」
そう言い放ち部屋を出ていった。
僕はさっきから気になっていることを聞いた。
「あの……すみません。あなたはどうしてここにいるんですか?」
「えっ……?!その声は隣に引っ越してきた方ですよね。よりにもよって本当にすみませんっ。どうお詫びをしたらいいか。一生をかけても償うつもりです。本当に……」
「えっと、何故そんなに謝るんです?」
「あっ……そうですよね……また一人で突っ走っちゃって…あの、私はあなたに怪我を負わした物の身内です。」
一瞬思考が停止した。
まさか殺す相手の身内に殺されかけるなんて。
「っ……あはははっ」
その瞬間本当に本当に不安が消えた。虚構って疑ってしまうくらいにね。
きみは困惑した顔で僕を見る。
「いっいや、こっちにも色々事情があるんですよ。」
僕の罪悪感が君のおかげで軽くなった気がした。
その時ドアが開いた。
スーツを着たかしこまった風貌の威圧的な男性だ。
「初めまして。これから説明させていただきます。
東郷一といいます。まず。彼女の兄の常磐亮一さんが貴方を車で轢き、怪我をさせた。幸いにも樋口さんは怪我だけで住みましたので危険運転致死傷罪の処罰としては、人を負傷させた場合には12年以下の懲役科せられます。しかし常盤亮一さんは不運にもこの事故でお亡くなりなられました。なので」
兄を亡くした妹の前でよくつらつらと話すことが出来るなこいつ。
「もういいです。僕は、生きています。もう面倒臭い。どうだっていい。少しは彼女の気持ちをかんがえたらどうでしょう。」
「というと……?」
こいつは石頭の賢い人間の殻を被った猿だな。
「もう事故とかどうだっていい。帰ってください。」
「いっいや、話さなくてはいけない事がまだ…」
「帰ってください。」
「では後ほどまた伺います。」
あいつは気分悪くしただろうが、それほど肝心ではない。あなたの気持ちが肝心なのだ。
「すみません。取り乱しちゃって。」
「いっいや、なんというか、その……」
まとまらない言葉を繋げようとしている。それだけでも体の痛みが消えていくような気がするんだよ。
「兄を許してくださってありがとうございます……。樋口誠司さん。」
自分の名を言われて鳥肌が立った。恥ずかしいようなむず痒いような。今までとはまた違う感覚だ。
「そういえば名前まだ聞いてなかったですね。教えて貰ってもいいですか?」
「もちろんです。梶村文子といいます。えっと、兄とは母は同じ梶村ハルなんですが、私の父は梶村二郎。けど、兄の父は常磐蓮太郎さん。兄が10歳を超えた後に母は常盤蓮太郎さんと離婚し梶村二郎と結婚して私が生まれたということです。ちょっとややこしくて。」
なるほどな。そんな生い立ちがあったんだな。
色んなことを話した。好きな食べ物だったり、趣味、悩み事とか。
気づいたらもう夜の6時だった。時が早く感じるというのは、こういうことだったんだな。
「そろそろ暗くなってきましたよ。女の人が一人で夜道を歩くのは危ない。さぁ、お帰りなさい。」
「はい。今日はなんだか、不思議な日でした。またお会いしに行きます。いい……ですか?」
「もちろんですよ。」
その言葉を背に部屋を出ていった。
部屋は月の光に照らされ、僕を包み込んだ。