9、不安と焦燥と
強大な魔力を有し、数百年の時を生きる存在。
有史以前から人間に恐怖を与えてきた者。
それが魔族。
ドラゴンに次ぐ上位種であるという強い自負を持つ彼等。
そんな彼等の基本的な価値基準は内包する魔力であり、使用する魔法である。
話す言語は同じであるのにーー否、同じだからこそ人間を『劣等種』と見なす。
人間など塵芥。
ゴミか小蝿ようなもの。
目障りであるゆえ、掃除したまで。
そう言って、とある町を焼き尽くした魔族の記録がある。また、他にも町や村が一夜にして廃墟と化したという話が各地に残っている。
もちろん魔族にも個人差があり、町一つを一瞬で、などということができるのはほんの一握りの存在であるのだが、それでも人間にはその下位の存在にすら、多数で当たらなければ対抗できない。
一個人で、何十……あるいは何百という人数を呆気なく殺せる、理不尽の権化。
魔物とは一線を画す、相容れぬ恐怖の象徴。
そんな存在を指し示す言葉をただならぬ様相で叫んだダナンに、その場にいた全ての者の驚愕した視線が向いた。
大半が半信半疑だが、恐怖が弾ければ、あっという間にパニックになる。
ジーク達がそう思ったのと同様に隊長ーーモルドもそう感じたようで、彼は真っ先にダナンに歩み寄った。
「今のはどういうことなんだ」
ダナンの肩を掴み、けれど極力声を落ち着かせて問う。
本当に魔族がいたのか。
どこにいたのか。
そもそも魔族はドラゴン同様、ほとんど姿を見せることはない。
なのにそんな存在が本当にいたのか。
だとしたらなぜこのアマノに。
どうして。
いったい何が。
聞きたいことが混乱し、頭の中で一気に膨れ上がる。
冷静であれ、と思うそれを押し退け、焦燥が胸に込み上げてくるのを何とか押さえ込み、モルドがダナンをひたと見据える。
魔族は一見しただけでは解らない。姿形は人間と同じだ。
ただ彼らは必ず黒髪でーーそして人間が持ち得ない紫の瞳をしている。
だが、黒髪など全く珍しくない、至って普通の髪色だ。
紫の瞳は魔族だけのものだが、瞳の色などある程度近くなければ確認できない。
だから。
間違いであってくれ。
はた迷惑な勘違いであってくれ。
懇願のような思いを胸に、モルドがダナンの肩を掴んでいた手に力を込める。
「冗談でしたじゃーー」
済まないぞ!
そう続けるつもりだった。
けれど。
「冗談なんか言うか! あの薬師が魔族だ!」
ダナンが更に驚くべきことを告げたのだった。
薬師という一言に、その場にいた全員が目を剥いた。
ダナンはゼナとハッセの仲間で、薬師の勧誘に来ていた。だから彼が告げた薬師というのは、今このアマノで質の良い薬草を育てたあの青年のことでーー。
モルドの脳裏に薬師の青年の姿が過る。
彼は人見知りな性格だが、挨拶をすればちゃんと立ち止まって会釈をする、優しげな青年だ。
自分と名前が似てるな、と言った時、小さく苦笑していた顔が脳裏を過る。
ほとんど町に姿を見せないが、見回りのついでに洞窟へ様子を見に行った時も、嫌な素振りなどせず、進捗状況を教えてくれた。
そんな青年だ。
顔見知り程度と言うなら、彼と面識のある人間は他にも多くいる。
約3年。
彼はこの町に住んでいたのだから。
「馬鹿を言うな! 彼の瞳は焦げ茶だぞ!」
紫ではない。
髪も瞳も濡れた大木のような焦げ茶色だ。
「………もしかしてお前、あの薬師に変な言いがかりをつけて、この町に居づらくさせるのが目的か……?」
モルドが眉をしかめ、ダナンに厳しい視線を投げつける。
「ちっ……ちげぇよ!」
「じゃあ何で魔族だなんて言うんだ!」
紫だったとでも言う気か?!
そう続けようとしたモルドに向け、焦りをありありと浮かべたダナンが対抗するように声を張り上げた。
「そうじゃねぇ! 『視た』んだ!」
「は?!」
「くそっ! 言いたかねぇが仕方ねぇ。俺はな! 魔眼持ちなんだよ!」
「!!」
「たった2秒しか視れねえけどな。ーーけど! 見間違えたりなんかしねぇ! あ…あいつの周りは黒の……闇の魔力で真っ黒だったんだ!」
背後が見えない程の濃さ。
魔力を見る視力ーー魔眼で視たのは、人間ではあり得ない程の密度の闇の魔力だった。
「あ……あんな濃さ……あり得ねぇ。薬師なわけがねぇ。魔法兵団長でもあれほどじゃなかった!」
以前、戦勝パレードでチラリと見かけた王都の魔法兵団長。
つい《魔眼》で視てしまった団長は、国一番の火の魔法使いの名に恥じることの無い魔力を漂わせていた。
ああ、こういう人間が上に登っていくんだな、とーー自然と納得できる魔力が赤いオーラとなって兵団長の周囲を包んでいた。
けれど。
今さっき視た薬師は違う。
あれは違う。
尋常ではない。
あり得ない。
「い……嫌だ……。死にたくねぇ……」
暗闇を恐れる子供のように、本能が忌避する。
「……隊長」
どうしますか、と若い兵士がモルドに問う。その顔には色濃い困惑が張り付いている。
もう一人も同じようなものだ。
周囲もざわつき出し、パニックになるのは時間の問題だった。
「……兄さん……」
焦燥と困惑と恐怖。
今、目の前で起きていること、聞こえていることに、理解が追い付かず、カナンが小さく呼び掛ける。
パニックを起こしたら負け。
冷静に。
思考を止めるな。
今まで言われてきたことを頑なに守ろうとするが、上手く出来ない。
ミーナと共にジークの側へ寄り、カナンがキュッと唇を引き結ぶ。
不安に揺れる赤茶の瞳を向けられ、ジークはカナンの頭に、ぽむ、と手を置いた。
けれど、いつものように「大丈夫だ」とは言えなかった。
「ジーク」
いつも以上に厳しい目付きで、ラウジが声を潜めて黒瞳黒髪の剣士を呼ぶ。
「ここは逃げ一択だ」
ドラゴンとほぼ同等の存在を相手に、ここにいる関所の警備兵と共に戦うなどありえない。
もし戦わずに、穏便に、事を済ますことができる相手だったとしても、敢えて自分から魔族という危険な存在に近づく理由はない。
ラウジの言っていることはもっともだ。
けれど。
「ーー第一級警戒配備! 併せて冒険者、傭兵、両ギルドに特別招集を要請!」
モルドの声が辺り一帯に響いたのだった。
モルド隊長は絶対に苦労性。好き。