13、暗闇の中で
崖から落ちました。その後です。
………暗い。
……暗い。
闇。
(痛い……)
最初に感じたのは痛みだった。
全身が悲鳴を上げている。
特に右の脇腹と右足が痛い。
意識が朦朧としている。
瞼すらまともに開けられなかった。
(寒い……)
次に感じたのは固い地面。
その次が頬に張り付く濡れた髪と水を吸った衣服だった。
寒さの原因はこれかと思う。
(お腹、空いたな……)
痛くて寒くて指先が微かに動く程度なのに、それでも空腹を感じるらしい。
そんな自分が少し可笑しくて、カナンは僅かに唇に弧を描いた。
あぁ……と、思う。
自分はまた折檻されたのか。
蹴られ殴られ、掃除用のバケツの水をぶちまけられたのか。
だとしたら、夕飯は抜きだろうな……と、そこまでぼんやりと思い……。
(違う……!)
カナンはハッと目を見開いた。
「ぅあ……っ!!!」
身を起そうとした瞬間、全身に激痛が走った。呼吸すらままならない痛みにうめき、涙が滲む。だが痛みは朦朧としていた意識をハッキリさせてくれた。
(違う、違う! 私、吹っ飛ばされて、崖から落ちてーー)
咄嗟に唯一使える土の自己防御魔法を掛けた。
一縷の望みをかけて。
「…………」
取り敢えず助かったのだろう。生きているのだから。
ただまともに動けない。痛みがあちこちに打撲と裂傷があると訴えており、おそらく右足は折れている。
それでも何とか痛みを堪え、周囲の様子を伺うが全体的に暗く、判別が出来ない。
水のーー川の流れる音がするが、とにかく暗いのだ。
「ここ、は……?」
「アマリエの地下水洞ですよ」
「……っ?! い……っ!!」
まさか答えが返るとは思わず、カナンはビクッと身を強張らせた。同時に痛みに襲われ、身を縮める。
痛みと涙で滲んだ視界に、声の主の足先が見えた。
「………大丈夫……とは言えないみたいですね」
そう言いながら声の主が近付く。
目だけ動かしカナンが自分に近付く人物を確認する。
それは暗がりの中でもなお暗く見える漆黒の髪のーー魔族の青年だった。
「あ、なた……」
「ひとまずこれを」
差し出されたのは緑の葉。
「ただの薬草ですから酷い傷は治せませんけれど、痛みは少し和らぐでしょう?」
まるでウサギか何かに餌付けでもするような、そんな雰囲気だ。
事実、この魔族からしたら、自分など小動物にも満たない虫以下だろう。
なぜ自分に薬草を?
なぜ彼はここにいる?
なぜ? どうして? 何がどうなっている?
尋ねたいこと、知りたいことがありすぎて混乱し、体が動かなかった。
「やはり……いりません、か……」
ふと、落とすように呟かれた声に、カナンが目を丸くする。
落胆と諦め。
何より悲しさを含んだその声は、あまりにも切ない声だったから。
「食べ、る!」
差し出された薬草を引っ込められかけ、カナンは思わずぱくりと葉を口にしていた。
咀嚼するだけで痛みが全身に伝播する。
生の薬草の青臭さと苦味も相まって、余計に涙が滲む。とてもじゃないが飲み込めない。
それでも、噛み砕いた葉の汁だけを何とか飲み下すとじわじわと効果が出始め、若干痛みが和らいだのが解った。
「……もう少しいりますか?」
魔族の青年が静かに問う。
カナンは素直に、こくり、と頷いた。
先ほど、ただの薬草と言われ、思わず躊躇なく口にしてしまったのは確かに軽率だとは思うが、今のままでは痛みでまともに動けない。
少なくとも薬草が本物であることは間違いないのだから、今は少しでも動けるようになるのが先決だ。
カナンは差し出されたそれをゆっくり……ぎこちなく震える動きで手を伸ばして受け取り、プチンと千切った葉先の柔らかい部分だけを口に含んだ。
苦いし不味い。
けれどできるだけ細かく磨り潰し、青臭い汁を飲み込む。
少しずつ、少しずつ……。
時間をかけて、それこそゆっくりと、まるで味わっているかのように。
二枚目も千切る。
動かなくても脂汗が滲むような痛みは、それなりに軽減された。
三枚目。
動けば呻くことになるだろうけれど、痛みで余裕のなかった思考が、少しずつクリアになっていくのが解った。
「………」
カナンがことさらゆっくりと咀嚼する。
状況を把握するために、俯いて食べながら、暗闇に馴れた目を周囲に向けた。
周囲はゴツゴツとした岩肌に囲まれ、所々ヒカリゴケが仄かな光を放っている。水音は流れの早さを伝え、荒々しさから水量の豊富さも感じる。
川の流れる洞窟と表現するのがぴったりの場所だった。
先程、彼が「アマリエの地下水洞」と言っていたのは嘘ではないのだろう。
アマノに着いた時に見た川が、まさか地下へ流れ込んでいたとは知らなかった。なぜ地上を流れ続けていてくれなかったのかと恨み言を言いたくなるが、言ったところでどうにもならない。
ちなみに地下を流れるこの本流と地上を流れる支流が上下で並走しているため、アマリエのおんぶ川と呼ばれることもある。
ちびちびと薬草を千切っては口に運びつつ、カナンは傍で片膝を付いてこちらを窺っている魔族の青年にチラリと視線を向けた。
闇より深い漆黒の髪。暗がりの中だが、確かに紫を宿していると解る瞳。
ただ、クーリを追っていた時に感じた、あのゾワリと総毛立つようなものは何もなく、魔族であるはずなのに、彼が自分に向けている視線に嫌なものーー侮蔑や嘲りの類いは感じない。強いて言うなら、観察している……だろうか。
つい……と周囲を見れば、自分達を中心とした半径10メートル程を膜のような何かが半円を描いて覆い、その膜の部分の空間がほんの少し揺らいでいた。
(姉さんが結界を張った時と似てる……)
ミーナの魔法は白魔法ーーまたは聖魔法と呼ばれる光の加護を受けた魔法であるため、結界は淡く清い光のベールのようなのだが。
魔族はその正反対。黒魔法ーーまたは闇魔法と呼ばれる、その名の通り闇の加護を受けた魔法を使う。
だからなのだろうか。
覆う膜は仄かに闇色で、透けて見えるヒカリゴケの光がゆらゆらと揺らぎ、まるで夜空を飾る星々のようだった。
(キレイ……)
それどころではないのは解っているが、そう見え、感じてしまったのだから仕方がない。
それと同時に、膜ーー結界の向こうに見たこともない水棲生物系の魔物がいるのが見え、カナンはビクッと身を竦ませた。
「……いっ……!」
動いたのは僅かだったにも関わらず、脇腹から肋骨に走った痛みに声と息が詰まる。
「薬草、まだありますよ」
「……も、いい……」
「でもまだーー」
「い……今は、無理」
うずくまり、カナンが痛みが遠退くのを眉をしかめて待つ。
回復するには対象の体力も使うから、これ以上食べると多分意識を失ってしまう。
それよりも。
動けなくても。
できることをしなければ。
幸いこの魔族の青年はーー今のところという注釈付きになってはしまうがーーすぐに自分を害することはないだろう。でなければ薬草など与えたりしないはずだ。
奥に見える魔物が遠巻きにこちらを見ているが、結界のお陰か近付いてくる様子はない。
崖から急流に落ち、流された。
どれだけ流されたのか解らないが、意識を失った自分が、自分で岸に上がったとは考えられない。
つまりは彼に助けられたということ。
結界もそうだ。
この結界がなければ、自分はあっという間に魔物に襲われ、今頃骨も残っていないはずだ。
兄達ならともかく、今の自分では万全の状態でも勝てないーーちらほら見えるのはそんな存在感を持つものばかりだ。
その魔物が襲ってこないのは、ひとえにこの魔族の青年の存在があるから。
今は感じられないが、彼が圧倒的な魔力を持つ強者であることが解るのだろう。
警戒し、遠巻きにうろうろしているだけだ。
つまり、自分は今現在も、この魔族の青年に助けられている。
少なくとも今は命の恩人。それは確かだ。
その上で。
(私をどうしたいんだう……)
助け、薬草を与え、その様子を観察する。
そんなことをやりたいのだとは思えない。
取るに足らない自分を助けた理由は? 意味は?
こっちが聞きたいことなら山ほどあるというのに。
彼はただ静かにこちらを見ているのだ。
「…………」
正直、どう動くのが正解かまるで解らない。機嫌を損ねれば即座に殺されるか、放置された後、魔物に食い殺されるかの2択だ。
自分が助かるには彼に頼るしかない。
それだけは確実に解っているだけに、下手に動けなくて息が詰まる。
そんな自分を、魔族の青年がずっと見ている。凝視というほどではないが、居心地は悪い。
(何でずっと見てるんだろう……)
まるでこちらの出方を窺うように。
どうすべきか迷うように……。
(……もしかして……)
彼も困っているのだろうか。今のこの状況に。
いやいやいや、魔族が?
人間の天敵、恐怖と驚異の象徴が?
脳内でもう一人の自分が、ありえない、と突っ込みを入れる。
だが、埒があかないのも事実でーー敵意や害意を向けられていないのも事実でーー。
カナンは小さく一呼吸して意を決し、ゆっくりと……魔族の青年に自分から視線を合わせてみた。
「……?!」
瞬間、青年が紫の目を見張る。明らかに驚いた様子だった。
そしてパチパチと瞬きを繰り返し、先程まで遠慮なく見ていたくせに、急にうろうろと視線を彷徨わせ始めた。
よく見れば、青年も濡れ鼠だ。
服の損傷とは裏腹に彼自身は怪我は皆無のようだが、漆黒の髪や衣服は水を吸い、ポタポタと水滴を落としている。
そう言えば薬草を受け取った時、わずかに触れた指先は冷たく冷えていた。
「……寒く……ない、の?」
つい。
カナンは青年に問いかけていた。
「ーーえ?」
カナンの問いかけに、青年の口から完全に虚を突かれたような声が漏れ落ちる。
紫の瞳を丸くし、明らかに驚いた表情だ。
これは、やってしまったのではーーと、カナンも固まる。いつも、思ったことをすぐ口に出すのは止めなければと思っているのに、これだ。
「あ……あの……その………」
どうしよう何を言おう、と今度はカナンが視線を彷徨わせる。
そのカナンの様子に、青年は驚きを少し残したまま口を開いた。
「……あ……は、はい。寒くはないです」
「あ、そ、そう……なんだ」
「あ、あの……あなたは、寒いですか……?」
「うん、…さ、寒い」
「そっ、そうですよね! 人間ですものね! すみません!」
ちょっと色々とありすぎて気を配れませんでした!
青年は最後そう言ったのだろうか。
痛みと寒さ、薬草を食べたことによる体力の枯渇でーー。
(……あ……ダメだ……)
カナンはゆっくりと意識を手放したのだった。
名前くらい名乗らせたかった……。




