獣に襲われたと思ったら獣のほうが倒れてた
マオが叫ぶその前に、撃退の準備はすでに整っていた。
否、常にされているといったほうが正しいだろう。
ロウは周囲の生物の存在を完璧に感知することができる。
だからたとえ死角からの襲撃でも、それは不意打ちとはならない。
この感知能力をもって、常に警戒し、襲撃に備えている。
ちなみに小屋からマオがいることに気づいたのもこの能力のおかげだ。
しかし、傍から見れば彼がその襲撃に気づいているようには思えなかった。
相変わらずうんうんと唸っているし、構えもなにもとっていない。
どうみてもただの間抜けだ。
マオもそんな彼を見て、とても慌てていた。
けれども水の中にまだ入っているからどうしようもない。
それに飛び出すわけにはいかない。
全裸だし、乙女として。
一方ロウはといえば、襲撃に気づいているにも関わらず至って冷静だった。
この襲撃は襲撃たり得ない――襲撃者が間合いに入ったその瞬間、全ては終わっていた。
ぐしゃり、と鈍い音がした。
マオはただでさえ大きなその目を更に大きく見開いてそのありえない光景を凝視していた。
「嘘……でしょ……」
一体何をしたっていうの?
気づいていた風にも見えなかったし、私の声で気づいたとしてもそこから動くにしても避けるくらいが精一杯のはず。
それが一体、どうして襲ってきたはずの獣のほうが横たわっているわけ?
物語に登場するような強者が人外じみた動きをするなんてよくある話だ。
そしてここは異世界。
つまりそういう私にとってはありえないこともありえる……そういう世界ということか。
それにしたって何をしたのか全く見えないなんて。
普通は少しくらいは予備動作なりなんなりある程度は見えるものだけど、この男、ひょっとしてかなり強いんではなかろうか。
色々と解せないことはあるけどなんだか面白くなってきた。
やっぱりあの霧を抜けてきて正解だった。
この世界には私が求めてやまないワクワクが満ちている。
一瞬の出来事だったけど、確信するのに十分すぎる光景だった。
マオが一瞬の出来事に呆然とし、事態を咀嚼し、次第に興奮していっているその間中、ロウはやはりうんうんと唸っていた。
彼にとってはこういった襲撃は日常茶飯事だった。
ゆえにすでに終わったこととして、とにかくこのよくわからないマオと名乗る少女をどうするかに頭を悩ませていた。
そうして少しした後、とにかくわからんことがあったら爺さんたちの元に連れていけばいいということを思い出し――
「すごいすごいすごいすごいっ!! ねえねえ、今一体なにをしたのっ!? もしかして最初からあれが襲ってくるの気がついてた? 私結構目がいいんだけどそれでも全く動きが見えなかったんだけどこの辺の人たちって君くらいすごいの!? ねえねえ教えて教えて教えてっ!!」
ものすごい勢いでマオが詰め寄ってきた。
目をきらきらと輝かせて、勢いのまま水から飛び出し、全裸であることをすっかり忘れた様子で。
「お、落ち着けって、そんな一度に聞かれたらよくわからん」
あまりの剣幕にさすがのロウも思わずたじろいでしまった。
襲ってくる魔物には全く動じない彼も、興奮した様子のマオには敵わないようだ。
「これが落ち着いていられる!?
異世界にきて、出会ったはじめの人がなんかめちゃくちゃ強くて、全然なにをしたのかわからなくって!」
「は、はあ」
「私、こういうのをずっと求めてたんだよね。前の世界じゃあんまり満たされなかったっていうか。
こう、水を注いでも注いでも全然桶に水が溜まっていかない感じ?
それがここにきて、君と出会って、危ないって思ったら一瞬で解決してて、私が理解できないことがそこにあるってだけですごい興奮するんだ。
それで初めてきちんと桶に水が溜まったというかなんというか――とにかくすごいのっ!!」
マオの言っていることはちっとも理解できなかったが、どうやらすごく興奮しているらしいということはよくわかった。
そしてこの女は絶対面倒だからすぐ爺さんたちに預けて今後関わらないようにしようと心に強く誓った。
「ま、まあわかったから少し離れてくれないか……ちょっと近い」
ずっとぐいぐいと迫ってくるものだからあと少し前に出れば身体に手が触れてしまいそうで、そういったことに頓着しない彼でも流石に少しやりにくかった。
「そ、そうね。少し近かったわ――ってあああああああっ!?」
またしても叫ぶマオ。
どうやら全裸で迫っていたことにようやく気づいたらしい。
顔を真赤にして胸や大事なところが見られないように、彼により一層密着した。
「っておい近づいてどうする」
「ばか! 離れるな! そして目を閉じろ! 乙女の柔肌は男がそうやすやすと見ていいもんじゃないんだからね!」
「はあ。よくわからんけどわかったよ」
あまり納得していない様子で、けれども逆らっても面倒なことになりそうだと思ってロウは指示に従った。
その様子を確かめて、そろりと距離を取り、いいっていうまで見るなよーと釘をさしてからすばやく服を着直した。
服を着て深呼吸をすると少し落ち着いてきた。
よし、もう大丈夫。
「もう目を開けていいよ。それで、さっきは一体何したの? 君が獣に襲われたと思ったら獣のほうが倒れてたんだけど……」
改めて問う。
「ん? ああ、あれはあいつが間合いに入った瞬間に一発蹴りをいれたんだよ。こういう感じで」
そう言うと彼はその場でゆっくりとその蹴りを再現してくれた。
普通に立っているだけの姿勢から、身体を旋回させ、その勢いを乗せて右足を思い切り振り抜く。
そしてその勢いをうまく制御してもとの姿勢に戻る。
なんのことはない、ただの後ろ回し蹴りだった。
やっていることはそれだけだったが、素人目にもその動きは非常に洗練されているように見えた。
おそらくこれを視認できないほどの早さで行なったのだろう。すごすぎる。
「なるほど……。でもそうだとすると変だよ。だって私が叫んだころにはもう間に合いそうもない距離だったもん。それとも――いや、もしかして?」
ありえない可能性に気づく。
ありえないけれど、この世界でならありえないことじゃないのかも。
「ああ、それは生体感知のおかげだな」
「生体感知?」
初めて聞く単語が出てきた。言葉の響きから大体の意味は想像できるけど。
「あー、なんていったらいいのかな。
こう、どこに生き物がいるかわかるっていうか。
ええと、爺さんはなんて言ってたかな。
確か、生き物がもっているエネルギーと自然のエネルギーの流れとを読み取って、存在を知覚? できるとかなんとか。
まあ詳しいことはよくわからんが、とにかく生きているものならどこにいるかわかるんだ。
あんたのこともこれで気づいたんだしな」
ま、俺の場合は詳しい理屈とかすっとばして感覚でやってるんだけど。と付け加えながら彼は説明してくれた。
なるほど、生体感知か。
よく物語とかゲームとかに出てくる気配察知みたいなものなのかな。
うーん、でも彼の説明を聞く感じだともっとすごいことをやってそうな気もする。
ま、その辺は今は気にしなくてもいいか。
とにかく、この男がなかなか強いということはよくわかった。
それに少し気になることも出てきた。
「そういえばさっき言ってた爺さんってあなたのお師匠様かなにか? この辺りに住んでるの?」
この男は細かいことはあまり気にしていない風だし、もしそのお師匠様が近くに住んでるならそちらに色々と話を聞いたほうがよさそうだ。
「あー、そうそう。その爺さんたちにあんたのことは任せようかと思ったんだった。というわけで今から連れて行こうと思うから支度をしてくれ」
それは都合がいいと、二つ返事で了承して身支度をする。
といっても張りっぱなしのテントを手早く片付ければおしまいだ。
そういえばこのテントとか服とかはこのへんでは珍しいんだろうな、と思い彼の方をちらりと見てみる。
しかし彼はあまり関心がないのか、桶に水を汲んでいた。
やはりこの男は役に立ちそうもないので、その辺りもお師匠様に聞いてみることにしよう。
というかなんで水を汲んでいるんだ。
案内してくれるんじゃないのか。
「じゃ、とりあえず水をうちまで運ぶから。そしたら案内するよ」
ああそういう。
私のことはあくまでついでっていうことね。
了解了解。この男のことがだいぶわかってきた気がする。
文句を言っても仕方なさそうなので、歩き始めた彼におとなしくついていった。
「あ、そういえば」
彼の家にたどり着いて水桶を下ろしながら、彼はなんでもないように尋ねてきた。
「あんた空飛べるか? 遠いから飛んでく予定なんだけど」
空……、空? え?