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鬼の武蔵は、いやにて候 -岩崎城陥落-  作者: 陸 理明
第一部 美濃剣戟編
9/26

岩崎城の美少年城代

 見慣れた丘は朱く染まっていた。

 岩崎から三河にまで続く丘陵のいたるところに咲き乱れたツツジの花の朱色であった。

 城の物見櫓から領内を眺めていた丹羽氏重には、それはこれから巻き起こる血と炎の色のように思われた。

 すでに五月過ぎであったから、かなりの狂い咲きであるのだが、それは冬の寒さが雪をなかなか溶かしてくれなかったせいである。

 産まれてからずっと目にしてきた岩崎のツツジの咲く景色をこんな気持ちで眺めることは一度もなかった。


「このような気分になるなら咲かないでほしかったかもね」


 十五歳になったばかりの氏重だったが、去年の夏に元服した。

 小姓になるための童子髷はもう斬り落としている。

 もともと残しておいたのは、信長の下で小姓として仕えるためであったのだから、本能寺の変とその後の移り変わりを考えれば元服していっぱしの武士になるしか道はなかった。

 特に、岩崎城の城主である兄氏次が信長の次男・信雄のもとに仕え、頻繁に留守にしていることから氏重は代理として切り盛りしなければならない立場だ。

 十五でも武士として振る舞う必要がある。

 この岩崎城だけでけではなく傍示本城の主でもある以上、すでに氏重に求められているものは重い責任を果たすことであった。

 もっともそれだけで先ほどから感じるむかむかする胸騒ぎを消すことはできなかった。

 子供の息を越えていないとはいっても戦国の武人であるゆえ、氏重も勘の働きが強い。

 何か嫌な予感がずっと心中を渦巻いていて仕方なかったので、この見晴らしのいい場所にやってきたというのにまったく気分は晴れなかった。


「おお、ここにいらっしゃったぞ、兄貴」

「氏重さま、ここにおられましたか」


 櫓を昇ってやってきたものたちがいた。

 二人で二つしか眼のない兄弟と呼ばれている須賀四郎右衛門と六蔵であった。

 兄の四郎右衛門は右目を、弟の六蔵は左目をそれぞれ流行り病で失っているため、どちらも対照的な隻眼である。

 ただし、片目だからといってこの二人を悪しざまに言うものはいない。

 なぜなら、隻眼というハンデを負っているのにもかかわらず、この兄弟は城に留まらず丹羽の家臣団、いや岩崎一といってもいい弓の達者であったからだ。

 弓以外にも鉄砲をよく使うが、どちらかというとやはり馴染んだ武器の方が上手らしく、いつも背中にかけていた。

 矢筒にもぎっしりと十数本の鏑矢が用意されていて、いざというときにも備えていた。


「どうしたの、二人とも。凄く邪魔だよ。ここ、狭いんだからさ」


 一人で生地の景色を眺めていた氏重は、櫓の中がいきなり狭くなったように感じた。

 兄弟はどちらも体格がよく、まだまだ成長しきっていない小柄な彼からすると圧迫感を覚えてしまうのだ。

 とはいえ、二人は主君の弟を威圧するような真似はしない。

 大きな体に似合わず、やや身を縮ませた。

 普段、いつも一緒にいる兄弟なので仕草はそっくり同じである。

 次いで口にした謝罪と言い訳もまたよく似たようなものだった。


「いや、申し訳ございません。おれはともかく、この馬鹿までがついてきてしまって。おら、邪魔だ、とっとと梯子をおりろや」

「何を言う、兄貴。氏重さまが櫓にいるんじゃねえかと思いついたのはおいらだぞ。兄貴こそ、さっさと降りればいいじゃねえか。氏重さまがお怒りになるぞ」

「てめえ、兄貴に向かってなんて口のききようだ、こら。弓ではてんで俺に勝てねえくせに身体ばかりはでかくなりやがって。うっとおしい」

「うるせえ、そっちはともかくおいらの方が鉄砲の腕は上なんだぜ、兄貴面すんな」


 挙句の果てに胴間声で兄弟喧嘩を始める始末だった。

 だが、おかげで氏重も気が楽になる。

 この二人は自分が岩崎の城代となってもかつてと同じように接してくれるのだと思うと気が楽になった。

 どちらも彼にとっては幼馴染だ。

 小さい時によく遊んでもらった記憶ばかりしかない。


「いいよ、いいよ、二人とも。狭いといってもここはいざとなったら攻め手を狙撃するために何人も詰めることになる場所だ。仕方ないから、多少の窮屈さは我慢しないとね。それで、私に何の用なんだい? わざわざ探しに来てくれたんだろう」

「しかし、若―――」

「なんだい」


 揃ってまた言い訳をしようとしたが、氏重が顔を近づけてきたことで二人は急に大人しくなる。

 若すぎる城代の美貌にあてられてしまったからだ。

 幼いころから知っているとはいえ、この少年の天女のような貌はむくつけき男たちにとってまったく眼の毒である。

 思春期に入り、幼さが抜けた分、青春の瑞々しい美しさが目立つようになっていたいたのだから尚更だった。


「景常どのが氏重さまを呼んで来い、とおっしゃっておられます」

「おいらたちはその使いっぱしりでさあ」

「叔父上がか? いったいなんだろう」


 加藤景常は、岩崎から一里ほど北にある雑木の丘陵地帯に築かれている長久手の城主であり、兄の氏次の舅にあたる。

 丹羽家とは縁が深い武士であった。


「若が傍示本の城主になられてから岩崎城ここに戻ってこられたのは去年の秋以来ですから、顔がみたいとかじゃないんですか」

「ほら、家老の今井どのでさえ久しぶりに若にお会いして涙ぐんでたぐらいですから、景常どのなんてもっとかもしれませんよ」

「いや、景常どのよりも……」


 弟の目くばせに対して、四郎右衛門は意味ありげに頷いた。


「そうだな。萩姫さまの方が我慢できそうにないよな」

「え、お萩がここにきているの?」


 その名を聞いて氏重の顔色が変わった。

 嬉しそうに頬を赤らめる。

 眼の輝きもさっきまでとは違っていた。


「それは本当なのかい!?」


 氏重が二人の肩に親しげに手を置いた。

 例え嘘であったとしてもそうとはいえないほどに喜色満面の笑みだった。

 もっとも萩姫が来城していることは事実なので否定する必要はない。


「へい、景常どのと一緒に奥座敷で大殿さまのお見舞いをなさっております」

「二人とも、だったら最初に教えてくれよ。いけずだなあ」

「言わない方が、若が驚くかなと思いまして」

「萩姫さまとは一年ぶりぐらいでしょう。黙っておいた方が喜ぶんじゃねえかな、と兄貴が」

「また、俺のせいにしやがる。てめえものっただろうが」

「そんなことはどうでもいいよ。私だって許嫁とはずっと会いたかったんだ。さあ、さっさとここを降りてくれよ。私まで降りられないじゃないか」


 しっしっと犬を追うように兄弟は梯子を下らされた。

 綺麗な顔をしているが、主人の弟君は意外と冷酷なのである。

 さらに平然と毒も吐く。


「よし、二人は私の代わりに櫓から見張りを続けていてくれよ。羽柴の軍勢がいつやってこないとも限らないんだからね」

「えー、また、昇るんですかい?」

「文句を言わない。もともとおまえたちの居場所じゃないか。さあ、持ち場についてよ」


 せつかく降りたのに、またも命令でしぶしぶ櫓にあがっていく兄弟をそれ以上見もせずに、本丸にむけて歩き出した。

 叔父である景常にも会いたいが、なによりまず許嫁である萩姫だ。

 まだ若く青い春時代を生きている少年にとって、気になる異性というのはやはり元気の源になり得るのである。

 岩崎城は小高い丘の四方の土をかき上げて彫にして、さらに土塁を積み上げただけの小さな城である。

 造りも三層の本丸を真ん中において、兵の常駐する長屋や台所を巡らせただけの簡素なもので、三百人収納できればそれで御の字であった。

 特別に目立つものと言えば、先ほどまで氏重がいて、須賀兄弟の持ち場である丘の真ん中に建てられた物見櫓ぐらいのものだ。

 石垣もなく、城壁も板張り程度であったため、籠城にはむいていない。

 もっとも、縄張りについてはかなり考慮されていて、南には岩崎川、北には六坊山と竹ノ山に囲まれて、堀の代わりになっている。

 堀の中も常に竹襖が敷かれていて単純な踏破を許さない様式である。

「四戦紀聞」という書物によると、「五十間ノ浅間ナル屋敷城ニコモル」とあるほど、小柄ながら本格的な城であった。

 三河への裏街道として重要な位置づけとされ、もし尾張への侵攻がなされるとしたらどうしても押さえておくべき重要拠点であり、逆にいえば三河へ兵を進めるためにも必要な場所であった。

 東海道が表街道であったのに対して、裏街道ともいえるのは挙母街道、伊保街道、明智街道であるが、その三つの合流地点が岩崎なのだから重要性は明々白々といえよう。

 かつて、松平清康は尾張侵攻の際にまず占領しているし、のちの関ケ原の合戦の時にも徳川家康はわざわざここに兵を置いて守りを固めさせている。

 岩崎城は単なる砦的存在ではなく、「寛政重修諸家譜」にもあるように「岩崎は三河の要害たるにより」という拠点だったのだ。

 氏重は小さなころからこの城で育ち、すべてを知り尽くしていたといってもいい。

 現在は大殿様と称されている父親の氏勝が数年の流離いで病に臥せっているのは、本丸の奥座敷である。

 そこにいこうとしていると、一人の年老いた武士が道端でぼけっと座り込んで考え事をしているのが見えた。

 特に何をしている訳でもないので無視してもいいが、氏重は妙に気にかかり、声をかけてみることにした。

 このあたり、城主の弟にしては気さくな少年であった。


「今井。どうしたのさ」

「ああ、これは丹羽さま。あなたさまこそ、どうなされた」


 氏重のことを、「氏重さま」でも「若」でもなく、「丹羽さま」と呼ぶのは、この男が去年まで武田家の家臣だったからだ。

 もともと武田信玄に仕える使番十二人衆の一人、今井勝澄であった。

 使番十二人衆は、信玄の側近から選ばれた豪のもののばかりで、ムカデの素早い動きとその猛々しさを表した百足の旗指物をさしていたために百足衆と呼ばれていた。

「甲斐国志」によると、山県昌景、高坂昌信、初鹿野昌次、小宮山友晴、阿部勝宝、真田昌輝、小幡光盛、小山田行村、金丸虎義、工藤市兵衛、三枝昌吉、そしてこの今井七右衛門勝澄である。

 百足衆は青地に金色のムカデが浮いた旗指物を下賜されていて、勝澄もまたそれを大事に抱えて、このあたりに落ち延びてきたのだ。

 武田家滅亡の際に、徳川方に拾われ、どういう訳か今は岩崎城にいる。

 さすが信玄に見いだされただけの実力者であり、すでに五十歳ほどのはずだが、武人としての強さは衰えてはいない。

 その勝澄が柄にもなくぼうっと呆けていたので気になったのだ。


「いや、今井らしくないなと思ったんだよ」

「儂とて思索にふけるときはありもうす。丹羽さまには武辺一辺倒と思われておるようですが」


 確かに信玄の挙兵から三十年程いくさの場にいたらしいこの老兵はしたたかで骨が堅い。

 背に指している百足の絵のようにしぶとい戦い方をする男だ。

 氏重の感想も決して一般論からすると間違ってはいない。


「何を考えていたの?」

「……いや、なに、この旗印がですな」


 と、勝澄は信玄から与えられたという絵を差し出した。

 仮名文字の「し」の形に百足が這いずっている。

 百足といえば俵藤太に退治されたものを含めて、京の周囲ではあまりよいものとはされていないが、金山のある甲州においては山師にとって縁起のいい生き物として考えられている。

 勝澄はかつての主君から賜われたというだけでなく、甲州産の人間としてこの絵を誇りに思い、つねに大事にしているのを氏重もよく知っている。

 ある意味では主君の遺品でもあるのだから、


「それがなにか」

「ここに儂の名を記しておきたいと思いましてな。それで誰に頼むか思案しておったわけです」

「今井の名をですか」


 氏重は首をひねった。

 この旗指物は勝澄にとっては命より大切なものである。

 大切なものに自分の名前を記しておきたいという気持ちもありえなくはないが、むしろ合点のいかぬ思いだった。


「ええ、まあ。思うところがありもうしてな。儂はどうしてもここに今井七右衛門勝澄の名をばっと残しておきたくなったのですわ」


 それはまるで遺言状の一節のようであった。

 白い紙に自分の名を刻むのは遺言を作るのに似ている。

 老兵は白昼夢でもみているかのように中空を見つめていた。

 氏重はこの自分の産まれる前から戦場を駆けまわっていた男の望みをかなえてあげたくなった。


「じゃあ、うちの丹羽家の菩提寺である妙川寺の日洲徳鯨和尚さまのところにいきなよ。私の名前を出せば良い字を書いてくださるだろう。なにせ、あの大和尚はわざわざ京まで行って一筆修練してきたほどの書の達者だからね」


 すると勝澄は苦いものでも口に入れたかのように渋い顔をしてから、


「儂の名の代わりに、戒名でも書かれたらかないませんぞ。縁起でもない」


 と諧謔を飛ばして笑った。

 氏重もつられて微笑み、ここで話を打ち切るとまた本丸へ向けて歩き出す。

 それほど狭い城内ではない。

 少し歩くと知った顔ばかりに出会う。

 すれ違うものがみな会釈をして、声をかけてくる。

 この若く、美しすぎる城代を城の兵士たちはおろか小者までが愛していたからだ。

 だが、このときの岩崎城の中で最も氏重を愛していたものと言うと……


「氏重さま!!」


 いつまで待ってもやってこようとしない許嫁を探して本丸から降りてきたこの少女であっただろう。


「お萩」


 去年の夏、信長の突然の死によって小姓になるための出仕がとりやめになったのを機に、婚約を結んだ加藤景常の娘の萩姫であった。

 美しさでいえば、下手をしたら男である氏重に軍配があがるかもしれないが、萩姫の魅力はなによりもその朗らかで闊達な笑顔と振る舞いにあった。

 よく動く大きな瞳が愛くるしく、二つ年上の氏重にとっては妹のようであり、それでいて女を感じさせる存在であった。

 ときに月の如き妖艶な色気を醸し出す美少年氏重であったが、基本的に男色には興味がなく、むしろ自らの美貌に頓着しない性格をしていた。

 ゆえに年頃の若者らしく素直に身近な女子に恋をするのであった。


 氏重も、萩姫と同じぐらい互いに惚れ合っていたのである。







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