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鬼の武蔵は、いやにて候 -岩崎城陥落-  作者: 陸 理明
第一部 美濃剣戟編
8/26

川中島脱出行


「美濃へ帰りたければ全力で駆けろ!!」


 森長可の大音声が響き渡る。

 すでにこの峠に敵兵が伏せていることはわかっていた。

 だが、ここを抜けねば先はないのだ。

 故郷を遠く離れた縁もゆかりもない国で屍を晒していくつもりはさらさらなかった。

 為すすべもなく死ぬのも御免だった。

 ならば力の限り、足が動き続けるまで走り続けるしかない。


「こんなところで死ぬのはわしが嫌だぞ!! いいな、貴様ら、鬼の手下らしく地獄へいくのはまだまだ先だ!!」


 その一言に兵たちは身震いした。

 武者震いだった。

 自分のことしか考えていない発言のようだが、いかにも鬼武蔵らしい物言いにそれでこそ我らが頭領と畏怖したのだ。

 長可が率いる狼の群れを仕留められる化け物はまずいないことを、兵たちはよく知っていた。


「おー!!」


 長可は軍配を岩沢俊三に渡すと、真っ先に先鋒の林隊と並んで峠の道を駆けだした。

 峠の道のいたるところから一揆勢が顔を出し突きかかってくる。

 これまでの百姓・野盗あがりとは違うのは装備でわかった。

 槍も刀もきちんとした武士の持ち物だったからだ。

 おそらくは川中島近辺の士郷たちが集ってきたのだ。

 春日周防のだしてきた書状の通り、森勢の退却を阻止する腹積もりなのだろう。

 目的は旧主家の復讐かそれとも上杉に下る際の手土産か。

 どのみち、まず第一に欲しいのは織田家の〈鬼〉の首級なのは間違いない。


 貫き捨てるべし!!


 長可と林新右衛門はおのれの愛槍をもって一気に突撃した。

 とてもではないが大将のすることではないが、そんなこと長可にとってはおかまいなしだった。

 なんといっても長可は初陣においてこの十文字槍を振るい、二十七の首級をあげた記録がある。

 前線での単独突破などいつものことであった。

 彼の手にした愛槍の人間無骨という名は、二代目和泉守兼定が鍛えた大身の十文字槍に彫ってある銘からきたものであり、この槍にとっては「人間の骨など無いも同然」だからこそつけられたと言われている。

 事実、長可の前に無謀にも現われた兵はほんの少し槍の穂が触れたような気がしただけで顔の半分を切り裂かれて絶命していた。

 恐ろしいまでの切れ味であった。

 人体でも特に切断しづらいとされている首の骨を軽々と撥ねてしまうのだから。

 後年の天下三名槍にこそ数えられていないが、当時においても恐ろしい槍の一振りとして知れ渡っていたほどである。

 その名槍を長可ほどの使い手がふるう。

 一振りすれば首だけでなく両腕まで吹き飛び、ただの切り替えだけで夥しい血が流れる姿はまさしく鬼であった。

 馬上なのにもかかわらず顔に黒くなるほどの返り血を浴びていく。

 それだけ人間無骨で築かれていく死人の山が凄まじかったともいえる。


「殿のまわりには寄るな!」


 二間(現在では約3.63メートル)は距離を取らなければ人間無骨の死の旋風に巻き込まれてしまうのがわかっているので、家臣たちはそれ以上近寄らないように訓練されている。

 すると大将の長可が孤立しかねないが、そんなことはお構いなしだった。


「でりゃあああ!!」


 林新右衛門と組んだ長可は進軍速度を落とさないように馬を動かす。

 長可の乗る馬は、川中島で手に入れた黒駒―――海津城から名前をとって「海津黒」と呼んでいた。

 信濃は野生の馬の宝庫であるから、そこでは美濃や岐阜では出会えないような巨躯をもつ馬が手に入る。

 その中でも最大の大きさを誇るのだが、長可は海津黒をたったの二か月で馴致して、すでに彼の手足と同様に操れる愛馬となっていた。

 海津黒にとっては初陣であるが、善光寺街道での一駆けで不安はもうなくなっている。

 人間無骨と海津黒の二つが揃えば、敵兵は障害と呼べるものではなかった。

 相方の新右衛門もまた優れた武士であり、背中は完全に任せられる。

 この二人の武者ならば突破口を容易く開けるに違いなかった。

 だが、本来、猿が馬場峠はさほど険路とよべるものではなかったが、待ち伏せに便利な山嶽地帯である。

 しかも、相手方は美濃出身の森勢と違い、細い獣道にまで知悉している地元の士郷たちであった。

 織田軍団においても無類の精強さを誇る百戦錬磨の兵たちといっても、地の利を完全に奪われていては全力をだしきれねはずがない

 さらに峠の頂上に近づくにつれ、軍勢が進むことの出来そうな道は数十メートルは高い懸崖の下を通っている。

 もしも峠の上に鉄砲を忍ばせられていたら、上からの斉射でどれだけの被害を受けるかわからない。

 ただ、ざっと見たところ伏兵は見当たらなかった。

 もちろん、それでわかるようならば伏兵とは言わない。


「どうなさいます、殿」

「なに、ここから先も予定通りよ。―――新右衛門、わしについてこい。四郎次郎は野呂助左が麓からの一揆どもを撃退している間、ここを護っておれ」

「御意」


 そういうと、長可は人間無骨を持ったまま街道の脇道に入っていった。

 脇には海津城をでたときからずっと小柄な足軽姿が付き従っている。

 小柄すぎて子供のようであるが、森勢の異常な速度の行軍についていけるだけの体力はあるようだった。

 林新右衛門と十名ほどがさらにそのあとを追う。

 少し歩くと街道と平行に通る獣道にでた。

 地元民しか知らないはずの隠れ道である。

 件の足軽の案内によるものだった。

 もっと先まで辿っていくとさきほどの街道沿いの懸崖の上へといけそうな岩の連なりが見えてきた。


「この岩を登っていけば一揆勢がいるのだな」


 長可の言葉にうなずくものがいた。

 足軽だった。


「よしではいくか」


 長可たちは器用に岩を上に昇っていく。

 現代でいうボルタリングほど難しくはないとはいっても武器と鎧をもったままとはいかないので、全員が下ばき一丁という姿になり、刀を紐で首に吊るした。

 指先の力とわずかなとっかかりだけを頼りに武士たちは大岩を登っていく。

 慣れない登攀作業ではあったが、なんとか全員が崖の上にまで辿り着いた。

 それから、用意していた綱を降ろすと下にいた足軽が簀巻きにしておいた人間無骨だけを持ち上げた。

 正直、長可は刀よりも槍の方が得意だから仕方のないところだ。

 ただし、長可はそれだけで無敵になれる。

 身をかがめつつ奥を覗き込むと、息を潜めて一揆勢の兵たちが鉄砲と弓を手に隠れているのがわかった。

 川中島の一揆勢の部隊だ。

 森勢が通り抜けようとしたところを一斉に射ち殺すためにじっと構えているのである。

 数は四十人ほど。

 鉄砲は十丁ほどであとは弓。

 二千五百の兵への不意打ちの人数としては少なすぎるが、狭い山の街道で上から射撃するのならば十分ではある。

 五月雨うちで次々と射貫いていけば、できた死体と重傷者で後続は足を止めざるを得なくなり、結局のところ麓からやってくる敵と側面からゲリラ的に湧いてくる敵に挟み撃ちにされ全滅させられるしかない。


「なかなか多いですな」

「なに、たいしたものじゃああるまいさ。斬りこむぞ」

「承知」


 長可たちは闇夜の狼のごとく飛びかかった。

 敵兵は下の行き来にのみ集中していて、まったく警戒をしていなかったから、長可たちの接近に気づかず対応もできなかった。

 次の瞬間、長可が音も立てずに並んで膝撃ちの準備をしていた三人をまとめて突き殺した。

 十字の鎌が日光を受けて煌めき、五人の首が牡丹の花のごとく落ちる。

 一度の突きと返す刀の一振りで八人を惨殺した。

 次に軽くぶん回すだけでさらに三人の首が宙を飛んでいき、崖の下まで転がっていった。

 十一人の命をこうまで容易く奪えるのが長可の〈鬼〉たる所以でもあろう。

 林新右衛門たちがわずかに離れて斬りかかる。

 鎧なしの裸に無防備な身体なので反撃されると森勢にとっても不利な奇襲であったが、 まさか自分たち伏兵に対してのさらなる奇襲など想定していなかった一揆勢はたちまち総崩れになり、しかも手にしていたものが鉄砲と弓であったなためまともな反撃もできなかった。

 なにより最初に突っ込んで来た長可によって瞬く間に半数近くが殺されたのが決定的であった。

 恐慌をきたした伏兵たちが逃げようとしたが、すべて長可たちに後ろから貫かれ、または斬り殺される。

 信濃のただの国人衆と悪鬼羅刹のような森勢の実力の差であることは明白であった。

 長可のかいた汗は登攀のためのものだけですみ、戦いのためには一滴も必要がないほどのあっけなさで敵は全滅した。

 人間無骨を持った長可一人で半数を超える二十三人が始末され、他の兵も一人残らず殲滅されて終わったのである……



         ◇◆◇



 鉄砲まで混ざった伏兵を全滅させた森勢は、そのまま抵抗もなく峠を下っていき、その日のうちに麻績宿に陣をとった。

 麓から上がろうとした春日周防の部隊も他の士郷たちもそれ以上は追おうとはしなかった。

 峠を越えた先はすでに川中島の士郷たちの勢力圏内ではないからだ。

 今度は自分たちが侵入者とみなされてしまうおそれがある。

 森勢は翌日には松本(深志)に到着し、そこで陣を張った。

 この当時、松本にまでは、まだ上杉も徳川も手を出して来てはおらず、微妙な均衡をたもっていたため、むしろ安心して宿陣できたといえよう。

 森勢が川中島を脱出すると、春日周防と川中島一揆勢のもとにまたも大塚次郎衛門が使者としてやってきて、「人質を返してほしいものは、朝、我らが出発する時に迎えを寄越すがいい」という長可の言伝をした。

 春日の家来のうち、周防が庄助を見捨てようとしていた策についてしらないものたちは去ろうとする大塚次右衛門に向かって「どうか若を無事お返し下さるよう、森さまにお取り次くだされ」と要請したが、返事はもらえなかった。

 森勢からしてみれば、主君を喪って退却しようとした時に後ろから邪魔をするようなことをした敵の、しかも首魁であるのだから当然だろうと国人たちは思った。

 翌朝。

 森勢が松本を出立しようと陣を解いているなか、川中島の郷士たちの使いが次々とやってきたが、誰一人として人質を連れて戻ることはできなかった。

 なぜならば、対応した大塚次郎衛門に、


「おまえたちの人質はすべて海津城の傍にある見張り搭に閉じ込めてある。さっさと救いに行くがいい」


 と言われたからである。

 いつのまにどうやってかは知らないが、海津城の人質は場所を移されていたのである。

 行軍の中にはいなかったのだ。

 だからこそ、あの異常な速度がだせたのだと真実を知って悔しがるものたちもいたが、反対に「やはり鬼武蔵侮るべきではなかった」と後悔するものもいた。

 そんな中、ただ一人、春日家の使いのものだけはその言葉を伝えられなかった。

 それどころか、陣から四、五町(約4~500メートル)ほど離れた場所で、森長可と林新右衛門と数名が目立つように現われると、次郎衛門に対して、


「春日の嫡子、庄助を連れてこい!」


と命じる声がした。

 人質を迎えに来た使者と松本の民衆が見守る中、二人の中間に抱えられて引き出されて来た庄助らしき小柄な影があった。

 ぼろ布を被らされ、本人であるかはわからない。

 それどころか、すでに死んでいるように人形みたいにぶらんと四肢に力がこもっていない。

 気絶しているのかもしれない。

 長可は乱暴に庄助を槍の石突でこづき、


「貴様の親である春日周防守めが、わしを背中から討たんと計ったのは許しがたい裏切りである。かねてから貴様には見込みがあるものとして、森の苗字まで与えてやったというのに残念なことよ。このたびは、我が家中の知恵あるものの計略によって、わしら金山のものは無事に引き上げることが出来た。だがな、勝助。貴様には親父の裏切りの罰を与えてやろう。さあ、地獄で嘆くがいい!!」


 そう言うと人間無骨で持って布を被った少年を槍で突き刺した。

 大塚次右衛門に対して、


「この死骸は殿の馬の尻にでも縛って美濃まで持って行け!! 周防めには息子の屍すら返してやらぬわ!」


 と言い放つ。

 見物していた者たちは蒼白になった。

 長可の放つ尋常ではない殺気に怯えさせられていたのである。

 やや離れた場所に引きだされていた庄助の乳母はあまりのことに泣き叫び、


「おいたわしや、若!! ええぃ、鬼武蔵め、どうせならばあたしもここで殺せ! 死んでおまえを呪ってやる!!」


 泣き叫んで制止する大塚次右衛門に取りすがり、この姿を見て涙を流さぬものはいなかった。

 その様子を楽しそうに長可は見つめ、最後に、


「貴様ら、忘れるなよ。わしは鬼よ。―――鬼に逆らえば、かまいてかまいてかまいて死ぬことになるということを。よいな!!」


 昨日の返り血で黒いまま呵々大笑する鬼を名乗る男を、川中島と松本の民たちは震えながら見つめていた。

 たった今子供を残酷に惨殺した、まさに悪鬼羅刹でありながら、その顔は信じがたいほどに整った美しい若者であったからだ。

 夢魔のごとき光景であった。

 到底逆らおうとは思えぬ異常な武将をみなが息もせずに眺めていた。

 長可はどこからか聞こえてくる民草の怨嗟の呻きと恐怖の嗚咽を安らかな子守歌のように聞いていた。

 満足であった。

 

 ―――森武蔵守長可。


 またの名を鬼武蔵という若き武将は、こうして四面楚歌といっても過言ではない敵地である信濃から脱出を果たしたのである。





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