猿が馬場峠への突撃
六月十一日未明。
森勢は全軍が海津城を出た。
先鋒は林新右衛門通安の率いる五百の部隊。
飯山城を守護していた野呂助左衛門が殿についたのは、森勢の中でもっとも川中島の地形に詳しいからである。
城から出ると、軍隊がまとまって進むことのできる唯一の街道である善光寺街道を南へと下っていく。
中央に荷駄を配置しているが進軍速度そのものはかなり早足だった。
その様子を窺っていた春日周防は部下に命じた。
「何人か連れていって海津城を調べさせろ。人質がいたら助け出して、いなかったら屍がないかを虱潰しに探せ」
「おらず、屍もないようならば……」
「森どもが人質をつれて逃げているのだろうさ。逃げる速さを捨ててまでも安全をとったか。森長可、案外臆病者よな」
「ですな」
くくくと笑うと、部下たちをそのまま海津城へと送り込んだ。
森勢の誰も残っていないのはわかっている。
彼らは大手を振って無人の城に潜り込んだ。
陽が昇る前であるが、半刻もしないうちに戻ってきて、
「周防さま」
「どうだった?」
「人っ子一人おりませぬ」
「屍は?」
「それもございません」
周防は森勢が消えた善光寺街道を見た。
まだ進軍による土煙がたっていそうだ。
「人質を連れていったということは、土地勘のあるおれたちならば猿が馬場峠で待ち伏せできるな」
「奴らも知らぬ山道を我らは知っておりまする。あやつらは、まだまだこの信濃の地をわかっておりませぬ」
「それだ。おれたちは峠で待ち伏せる。それまでの千曲川から屋代までの間には、血迷った百姓どもをけしかけて襲わせる。おれたちは百姓どもに混ざって人質を救う隙を伺って奪い返すという塩梅だ。いいな」
一人が郷士たちの一揆の本隊に向かう。
彼らはそのまま近道を辿って猿が馬場峠で待ち伏せに入る。
四面全てが敵と化した森勢が疲れはてたところを、地の利を生かして確実に潰すためである。
峠にはこのあたり一帯からかき集めた鉄砲が配置され、周防とその一党は隠れて後ろから追跡し、人質を奪還してから追い込む作戦であった。
「馬鹿な鬼武蔵よ。鬼の死に場所はここだ」
周防は織田軍団でも名の知られた武将を討ち果たして名を上げることにこれ以上のない高揚感を覚えていた。
◇◆◇
森勢の総数は二千五百人。
荷駄の部隊を中央に引き攣れているにしては進軍速度がだいぶ速かった。
川中島の一揆勢のように統率の取れていない、落ち武者狩りのような百姓とも野盗ともいえない集団にたびたび襲い掛かられるも、前の林、後ろの野呂、中央の長可の部隊がことごとく蹴散らしていく。
後年の百姓一揆とは違う、戦乱の世においてはただの農民ですら時に恐ろしい武者とかすことがある。
手にする武器も竹槍のような無様なものではなく、きちんと刃先を研がれた槍や刀であることも多い。
二千五百人いるとはいえ、街道を間延びしている軍に対して断続的に襲い掛かられると少なくない被害がでている。
行軍のための旗指物はしまってあるとはいえ、森勢が織田軍団であることはすぐに見破られてしまうし、信長の死もすでに知られていたことから敗残兵狩りをされているようなものだった。
それでも森勢は強く、死者そのものはほとんどでていない。
脱出行とはいっても勢いのある行軍にぶつかれば一揆勢が弾き飛ばされるだけなのだ。
しかし、行軍速度を維持するためには重傷者は見捨てざるを得ず、猿が馬場峠に辿り着く頃には数十名が脱落していた。
故郷で死ねない無念を思わざるをえない。
「―――強いぞ、奴ら」
周防は呟いた。
後を追っていた周防の部隊は道端に転がっている一揆勢の残骸の飛び散った惨状を見てそれしか言えなかった。
まるで死の旋風が通り過ぎていったかの如き血の海がいたるところにできていた。
「まことに」
部下たちも頷く。
海津城に近い領地に住む春日一族は、飯山城と大蔵の城での森勢の戦いを目の当たりにしていなかった。
実のところ、森長可とその家臣団を侮っていたのだ。
人質の件と芋川親正の一揆勢との戦いから、ただただ残忍な力押しの猪武者だと思っていたのである。
後年、周防は上杉家に謀反を疑われた挙句殺されることになり、跡を継いだ一族も長可のただ一人生き残った弟忠政の策略によって磔にされることになるように、春日の一族のものたちは思慮が激しく浅いという特徴があった。
自分が頭を捻って考え出した策がある場合、それの通りに敵も味方も動くに違いないという硬直した思考を抱きやすいのだ。
一つの一定の方向性があるのならばともかく様々な要因が絡む事態には向いていないといえる。
今回も、そうだった。
(森長可は、ただの乱暴ものにすぎない。主君の後ろ盾がなければ突進するだけの猪だ)
という思い込みからでしか物事を考えつかないのである。
ただし、同情すべき点もない訳ではない。
「……庄助め。あやつがもうちぃと長可めのことをきちんと伝えておればましになったのだ。役に立たぬ愚図だ」
海津城に人質として送っていた嫡子庄助から届いた文と、何度も城に赴いて彼の世話を焼いていた乳母からの報告によって、周防は「森長可は思慮が浅く、知恵が足りない愚鈍な武者」であると受け取っていたのだ。
庄助は長可が烏帽子親となるほどに近くで可愛がられていた。
例え子供といえども傍でみていれば人品の観察は誤らないものだ。
そもそも、そのために庄助は人質とされたのだから。
このとき、周防は確実に長可のことを見くびっていた。
「若様をお救いしませんと」
「いや、むりをしなくともよい。あやつはいざとなれば見捨ていいさ」
臣下の言葉を周防はあっけなく否定した。
「なんですと。若は春日の家の継嗣ではありませんか。それを見捨てるなどと……」
驚愕で開いた口の塞がらない臣下の方を向きもせずに森勢の消えた街道の奥を見据え、
「おれには次男の松助がおる。だから、庄助が死んだとしても春日家はもう困らぬ。それにあいつの母は産後の肥立ちが悪くすでに死んでおるから、文句を言ううるさいものはおらん」
「ですが……」
「よく聞け。ここで鬼武蔵を討って名を挙げておけば、あとからやってくる上杉にいい土産となる。他の家の連中など相手にならんほどの大手柄だ。だからこそ、なんとしてでも織田の残党を信濃から逃してはならん。ここで奴の首級をとるのだ」
「しかし、万が一人質が森の狼藉で殺されでもしたら……他の国人たちに申し開きができないのでは」
「鬼武蔵が人質を盾にするとしたら、それはまず書状を送り込んだおれの息子からだろう。例え、他の家の人質に被害が出たとしても、まっさきに自分の子供が殺されたおれのことを悪く言うやつはそれほどでないはずだ」
家臣は苦虫を潰したような顔になった。
確かに戦国の武家にとっては家を残すことが何よりも大事であり、そのために息子を生贄にしたとしても許されることの方が多い。
現実に、今追跡している森長可の主君であった織田信長から疑いを受け、同盟者でありながら泣く泣く長男信康を殺した徳川家康という前例もある。
わが身とお家の安泰のため、実の子しかも将才も人格も申し分のない嫡子を殺さねばならないのは戦国の世ではよくあることだ。
だが、他家の人質を殺す言い訳のため自分の子供を差し出すというのでは陋劣さの次元が異なる。
自分の主人のことながらあまりに卑劣である。
視線を向けなかったことから家臣のそんな顔つきに気づきもせずに、周防は言った。
「よし、街道の脇の山道を行くぞ。手筈通りに猿が馬場峠で仕掛ける」
周防が率いる部隊は、織田家が侵攻してきてからもあえて伝えていなかった地元の杣人や漁師だけが使う獣道を使い跡を追った。
森長可は獣のような男だが、兵は二千五百人。
素早く退却するとしたら危険があるとしても整備された街道を行くしかない。
他の道を使うことは基本的に考えられない。
周防の読みは正しく、もし街道をそのまま追跡していたとしたら森勢の無茶苦茶な移動についてゆくことができなかったかもしれない。
とても荷駄と人質を連れているとは思えない速度であったからだ。
もし、周防たちが素直に追跡していたとしたら、そのあまりに異常な速度に違和感を覚えたかもしれない。
なにしろ、途中で現われる野盗崩れの一揆勢を蹴散らしながら、通常よりも速いぐらいなのだ。
森勢がなだらかな丘と平地を越え、もうすぐ猿が馬場峠に達しようとするとき、ぎりぎり周防率いる兵が待ち伏せに間に合った。
すでに峠のいたるところで他の士郷の一揆勢も配置についていたので、下手をしたら戦いに間に合わなかったおそれもある薄氷を踏むタイミングであったわけだ。
周防の隊の役目は峠の麓からの追撃である。
間に合わなかった場合、森勢を上と下から挟撃するという策が破たんしていただろう。
あまりの敵の進軍の速さに、地元の地の利を活かしてようやく追いつけたということで、戦の始まる前から安堵の汗が流れだす。
(人質をつれてこの速さかっ!! 信じられぬ!!)
この街道における最大の難所である猿が馬場峠。
ここを抜けると麻績宿である。
北方の川中島からは離脱できたと呼べる地域だった。
隠れ伏した周防たちの目の鼻と先を、森勢が休むことなく遮二無二に突進していく。
休むことなど微塵も考えていない。
すべては人と馬の限界にかかっている。
生き残るためには少なくとも四方全てが敵といえる信濃を一刻も早く脱出するしかないのだ。
猿が馬場峠は普通に行軍するのではあれば、それほどたいした難所ではないが、こと今の森勢にとってはまさに天険の地といえた。
なんといっても道が狭く、地域によって幅員がまちまちであり、大軍が進むには不向きな峠であったからだ。
しかも、麓と峠上では旧武田家の家臣団が槍を構えて待ち構えている。
ここを突破するためには最早森長可の力量と天運に頼るしかなかった。
「進めぇ、ここが踏ん張りどころだ!! 美濃の武士の意地を見せつけてやれい!!」
鬼武蔵とその一党は、自分たちをやり過ごすためにじっと息を殺している春日周防の前を疾風のごとく駆け抜けていった……