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鬼の武蔵は、いやにて候 -岩崎城陥落-  作者: 陸 理明
第一部 美濃剣戟編
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人質交渉

 海津城からわずかに離れた関山の地に、近隣の旧武田の国人たちが槍と馬をもって集っていた。

 ほんの数日前まで、越後の国の上杉景勝の領地にまで侵入しようと企てていた森勢が陣を築いていた場所である。

 森勢が本陣に使っていた三本杉あたりは酷く無残に放火され、灰燼と化していたため使うことはできなかった。

 とはいえ、急いで海津城まで退却していったからか、糧食や武器なども少なからず放置してあり、それは国人たちの手に渡っていた。

 もし森勢が通常の状態ならば、退却時に物資を置いて戻るなどはありえないことで、それだけ火急の用件であったということに他ならない。

 最初はその退却を何らかの策だと疑っていた国人たちであったが、二日もすると都の方から、


「信長公、討たれる」


 という噂が広まってくるにつれ、森勢の混乱ぶりが理解できた。

 魔王とまで恐れられた主君が死に、後ろ盾のなくなった暴れ者どもがどうするべきかと頭を捻っておるのだと。

 信濃侵攻時に散々村を焼き、逆らうものを皆殺しにしていた森勢のことを国人たちは激しく嘲笑った。

 たった数か月のことであったというのに、織田軍団―――特に森長可率いる部隊についての憎悪は怒髪冠を衝くほどになっていたからだ。

 だが、敵の混乱の隙をつきすぐにでも襲い掛からなかったのは、近隣の郷士・国人たちの妻と子が悉く人質にとられていたからであった。

 戦国の世だ。

 女子供を見捨ててしまうこともできる。

 しかし、できなかった。

 なぜなら、差し出された人質はその家にとってもっとも有益だといえるものばかりだったからだ。

 あまり重要ではない立場のものを差し出すことは絶対にゆるさなかったのである。

 長可は人質を取るにあたり、国人同士で隠れて面の確認を行わせた。

 同じ領内、同じ旧武田の家臣だ。

 多少はなれていてもほとんど顔も名前も性格も知っている。

 もし嫡子と偽って別の子供を差し出そうものならば、その家系のみならず関係ない他家の人質の指を切り落とすように脅した。

 実際、正妻ではなく端女をつれてきたものに対して、その端女とともに他家の関係のない女の指をすべて落とした。

 そして、例外は許さぬ、と長可は恫喝した。

 国人たちは自分の家の人質の安全を図るために他家の出し抜きをも見逃すわけにはいかなくなったのだ。

 つまり、いかに森勢が織田信長の死によって窮地に陥ろうと、簡単に攻め込めば人質はすべて皆殺しにされることは間違いない。

 どれほど憎悪の光をもって睨みつけようと、国人たちがまとまって海津城を包囲しないのはそのせいである。

 だが、中には例外もいる。


「春日どの! 海津城に使いを出して長可めを脅したというのは本当なのか!」


 森勢によって焼き討ちされずに残った庄屋の屋敷の中で、各家の総領たちが集まって軍議を開いている最中、そう怒鳴りつける郷士がいた。

 怒鳴りつけられているのは春日周防。

 海津の郷士である春日一族の総領だった。

 このあたりでは最も勢力が強かったが、武田の滅亡以来、大人しく息を殺しているしかない一族である。

 この軍議ともよべる集いにおいても、他の数人の郷士たちと徒党を組んでいた。

 最大勢力といってもいい。


「ああ、そうだ。貴様らがとっている人質をことごとく返さねば、巣穴に帰還しようとしても後ろから追いかけまわし、街道の切所にて襲い掛かってやる、とな。できるなら、おれ自身であの人狼ひとおおかみのほえ面をみてやりたかったところだわい」

「なぜ、そんな真似をした!! 怒り狂った長可めが本当に我らの子らを殺したりしたらどうするつもりだ!!」


 その正当な主張を周防は鼻で笑い飛ばした。


「できるはずがなかろう。やつの背後にいた織田信長は死んだのだ。流言のおそれもあったが、実際上野の滝川一益が後ろから北条に狙われるのを承知でとって帰ろうとしている以上、まず間違いはなかろう。―――信長は死んだのだ」

「だからといって……」

「信長が死んで、海津城の長可に何ができる? 飯田の隊を含めても二千五百ほどしかおらず、周囲は少し前まで敵国だった土地だ。囲まれたらあっというまに膾にされて終わるに決まっておる。あやつは人質を盾にしてこちらと和睦を結ぶしかない立場よ」


 確かにその通りだった。

 信濃は南北に長く、しかも海津城は北の果てだ。

 森勢が領地の美濃へ帰還するには信濃を縦断しなければならない。

 その間、織田軍団によって散々煮え湯を飲まされてきた旧武田の家臣が大人しく見守ってくれるはずがない。

 寄ってたかって復讐されるのは目に見えている。

 しかも復讐したとしても信長のいなくなった織田家が報復に来るおそれはまずない。

 嫡男の信忠まで喪った織田家は混乱を極め、信濃のことなど思い出すこともないだろうからだ。

 ゆえに森勢の脱出行は困難を極めるだろう。

 海津城に留まって籠城するにしても、さらに北から上杉軍が南下してくるのもそう遠くない未来のことだ。

 そうすれば瞬く間に潰される。

 となると、森長可とその家臣たちができるのは、春日たち周辺の国人の機嫌をとってできるかぎり安全な脱出を心掛けることだけだ。

 それでさえかなりリスクのある選択なのだから、そのためには人質を傷つけることなどできるはずがない。

 もしやるとしたら、ただの大馬鹿者だ。

 森長可は明日にもこちらに頭を下げることになるだろう。

 春日周防の脳裏では、信濃で血の雨を降らせた森長可とその一党をどう料理してくれようかという想像ばかりが広がっていた。

 彼の嫡子である庄助の安否など考えてはいなかった。

 周防の率いる徒党も同じ考えだった。

 軍議に集った郷士の中には、武田勝頼を喪ったばかりであったからか主君を喪った直後のものを攻めるのは気が引けるというものもいたが、周防の自信満々な弁に傾くものの方が多かった。


「だがな、春日どの。貴殿の嫡男である庄助どののこと忘れてはいないか。長可さまは息子どのの烏帽子親となり、彼に森の苗字を授けているのだぞ。しかも、長可さまが親しいものに勝蔵と呼ばれておられることから、あえて勝助と名乗らせているほとではないか。春日家は、他の家よりもはるかに厚遇されていたというのに、貴殿のなしていることは前代未聞の不義となるのではないのか?」


 そう口にしたのは、この一揆の集まりを説得するためにわざわざ海津城からやってきていた森家の家臣大塚次右衛門であった。

 長可の言葉自体はきついが、次郎衛門はできるかぎり諭すように言った。

 次右衛門は使者として、森家と一揆衆の双方が正面から激突しないようにと、周防を始めとした国人たちを説得するつもりだった。

 当然、次右衛門の身は危険である。

 この場で殺されても仕方のない立場なのである。

 すでにもう遅いかもしれないが、周防の読みが外れ、恫喝されたことに激昂した長可によって彼らの人質が殺されていないとも限らないのだ。

 妻や息子の安否を気遣うものたちは次右衛門の言葉に期待した。

 森家の側としての言葉であったが、徒党を組み、十分な支持を得ている周防に真っ向から対立することはできなかったからだ。

 それに次右衛門の説いた内容は理にかなっていた。

 しかし、周防は次右衛門の言葉もせせら笑った。


「では、誓紙を届けよう。海津城から無事に抜け出して美濃へ帰るのは見逃すと、な」

「おわかりねがえたか」

「馬鹿なことを言うな。森どもが人質を城においていかねば、そのまま後ろからぐさりと刺すだけだ。皆殺しにされていたら当然こちらも仕返しをする。人質を連れていくというのならば、行軍は遅れる。動きの鈍い連中の隙をついて人質を奪い返せばいいだけのことよ。幸い、信濃はおれたちの故郷よ。地の利はおれたちにある」

「まだこちらを脅迫するというのか……」

「人聞きが悪いな。まあ、いい。さっそく誓紙を書くので、城までの届け役はとにかく次右衛門どのに頼もうか」


 信濃の国のものたちは術中と謀略に長けていると言われている。

 数えきれないほどの士郷が何百年も相争いしつつしてきたからだ。

 武田信玄が信濃を手に入れるときにもっとも苦心したのは、信濃の国人のしたたかさであった。

 信玄が正嫡である義信ではなく勝頼を継嗣としたのは、諏訪領主である諏訪頼重が母親であり、信濃の国人の支持をえるためであった。

 要するに、武力だけで信濃をまとめ上げることは武田信玄でも叶わなかったということである。

 そして、春日周防は生粋の信濃武士であった。

 脅迫の片棒を担がされるのはいやであったが、周防の支持者たちが殺気を放ちつつこちらを睨み始めていたため、これ以上の説得は不可能と次右衛門は悟った。

 言うことを聞くしかない、か。

 しばらくしてから次右衛門は手渡された誓紙をもって単身海津城へと戻っていった……




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