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鬼の武蔵は、いやにて候 -岩崎城陥落-  作者: 陸 理明
第一部 美濃剣戟編
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海津城にて

「好きに暴れよ、か」


 もう二度と上様の威は借りられぬことになってしまったが、その下知は忘れてはいない。

 森長可は、織田家の鬼なのだから。

 例え主君がなくなったとしても受け賜わった言葉はなくならない。

 

「蘭丸さまだけでもご無事であればよかったのですが」


 俊三の気の毒そうな言葉を長可は打ち消した。

 坊丸、力丸が不要というわけではなく、森家の存続を第一に考えのならばある程度育ち切った後継ぎが必要だということである。

 長可自身家督を継いだのは十五歳だが、あのときは主君による全面的な支援と後ろ盾があった。

 今の森家の状況とは比べようがない。


「お蘭が上様をおいて逃げると思うか。あやつは最後まで忠と義に生きる男よ。上様と共に戦って枕を並べて討たれただろうよ」


 いつか共に槍をとり馬を並べて戦場を駆けようと思っていた弟との輝かしい未来はもう断たれた。

 自分が織田家にとっての〈鬼〉であることを引き受けた以上、汚れ仕事や不名誉は覚悟していた。

 鬼には極楽よりも地獄が相応しい。

 兄は武士として高名を望めないとしても、弟たちにはもっと華麗な舞台での華々しい活躍があると信じていた。

 信長が天下を取り、信忠が跡を襲い、その下でまつりごとに勤しむ弟たちを美濃のどこかの片隅で見守っていくのが願いだった。

 それは森家を盤石にするという父・可成の願いと並ぶ長可の夢の一つだった。

 しかし、もう、弟はいないのだ。


「上様もお蘭もいなくなってしまったのかよ」


 あとは金山城に待つ母の勝寿院と妻の久と彼の子、森の一族のもの、そしてついてきてくれる家臣団だけが長可の支えになる。

 留守を任せた老将の森宗兵衛と二百の兵、しかも半数は奉行と祐筆である。

 弟はもう一人いるが、まだ小さく、周囲の小狡い大人たちには太刀打ちできないだろう。

 長可の妻の久の舅である池田勝入ですらどこまで当てになるかはわからないのだから。

 考えれば考えるほど、これまでの戦いでの疲れがどっとでてきそうだった。

 少なくとも、このときの長可にとっては今でいうモチベーションが尽きかけていたのである。

 これから敵地となった信濃を抜けて安全圏にまで逃げきるという危険極まりない退却戦を行うためには、純粋なまでの戦闘意欲が必要であるというのに。

 長く振る舞ってきた鬼の思考では、攻めるのではなく逃げるための戦いに馴染まないのだ。

 

「おまえを初めて重く感じそうだ」


 海津城内においてもほとんど手放すことのない愛槍・人間無骨の柄をしごいた。

 無意識の動作だった。

 今の長可にあるのは、この槍だけなのだ。

 父の形見であり、戦場の友だ。

 これまで百を超える首を刈ってきた、死神の鎌であった。

 手の中の冷たい感触だけが現実に彼を引き戻す。

 せめてこの人間の骨すら撫で切りにする鋭い槍の穂先を突き立てる相手でもいればいいのに……

 このとき、ふと思いだす。


「―――そういえば、あいつがいたなあ」


 長可の脳裏に一つの記憶がよみがえった。

 彼の初陣のときのことだ。

 手にした一尺二寸七分の槍を軽くしごいて突きだしただけで、鎧をまとった敵兵ごと背後の岩まで刺し貫いた力強い後ろ姿を見た。

 人間だけならばともかく岩を紙のごとく貫くなどありえない。

 怪物だと思った。

 そこに至る戦場で、自分自身、父親の形見である槍を振るってすでに二十人以上の兵を仕留めていた長可をして瞠目するような腕の冴えだった。

 いくさ場には独特の狂気に満ちた風が吹く。

 感じただけで血が湧き立つ、熱すぎる死の風だ。

 ゆえに冷静に、落ち着いて行動などできるはずがない。

 初陣における若人の戦死率が高いのはそのせいである。

 歴戦の勇士でさえときに魔境に囚われる血なまぐさい高揚感のさなかでは、初めて血の臭いをかぐ血気盛んな若者が呑み込まれない保証はない。

 森長可でさえもそれは変わらなかった。

 馬に乗って夢中で槍を振るい、自軍からやや突出しかけていた。

 このまま行けば、森家の新棟梁はそのまま敵に囲まれて膾のように切り刻まれていたかもしれない。

 だが、その長可の狂気をがつんと殴りつけるように止めたのがその武者の槍の一撃であった。

 どれほど鋭い槍であったとしても堅い岩を貫くことなぞ普通は不可能だ。いかに鋼とて穂先が欠けて使い物にならなくなる。

 なのに、長可が目撃した男はその常識を容易く覆していた。

 あまりの戦慄に水をぶっかけられたように狂気を冷まされてしまった。

 己の槍の技前に自信があるからこそ、その光景によってなによりも激しく現実に引き戻されたのである。

 その時、双眸に焼き付けられた後ろ姿―――


「―――丹羽氏次ぅ……」


 主君信長に命じられて始めたにも関わらず、産まれ故郷の酒を飲むように性に合っていた鬼稼業であったが、それと平行するように育まれていた武人としての戦意が猛々しく甦る。

 いや、違う。

 寄りかかれる主君と守るべき家族を喪った代償として、長可は強く宿敵を望んだのかもしれない。

 不倶戴天の大敵がいてこそ人生に花が咲く。

 なんとしてでも殺さねばならぬ相手がいるだけで力が湧く。

 依存すべきは味方でも敵でもいいのだ。

 にやりと口角が吊りあがる。

 かつて信長の笑いに見せた笑みであった。

 血で割れた三日月に似ていた。


「岩沢。飯山城の野呂助左衛門をのぞく主だったものをここに集めろ。とっとと美濃に帰るぞ」

「はっ」


 しばらく後、集められた宿老たちに美濃への帰還を告げた。

 ただし、本能寺の変についてはしばらくの間、兵たちに秘すことについては厳命しておく。

 この猛々しい若き鬼に逆らうものなど家中にはいない。

 宿老たちは何も言わずに帰還の支度に入った。

 秘密裏に事を運ばねばならないのには、長可が拝領した高井・水内・埴科・更科の四郡が武田の旧両であるからに他ならない。

 二月前の四月五日に海津城入りした長可は、北の防備である飯山城を取り囲んだ士郷たちの一揆を殲滅していた。

 一揆の首謀者は芋川親正。上杉家の支援を受けていた。

 総数は約八千。

 海津城の長可の手勢は、まだ二千足らずしか集められていなかった。

 おおよそ四倍の戦力差に、甲府にいた信長と諏訪の信忠から稲葉一族と団忠正らの援軍が慌てて派遣されることになった。

 いかに勇猛としられる森勢であってもその彼我戦力差ではもたないだろうと判断したのである。

 だが、その援軍たちが辿り着く前に一揆勢は殲滅させられた。

 たった二千の兵を率いた長可は囲みを完膚なきまでに破り、さらに逃げるものたちを何里も追撃して千二百あまりを討ち取った。

 返す刀で大蔵の城を本拠とした芋川親正を女子供もろとも皆殺しにする。

 二度と歯向かう気が起きないようにと言う織田家の〈鬼〉のやり口であった。

 この結果、森長可の軍勢の強さは信濃と甲斐のすべての地域に轟いた。

 しかし、同時に地元の豪族たちの深甚な恨みを買ってしまうことにもなる。

 ゆえに彼らが本能寺の変のことを知ったら、さすがの森の軍団とて今度こそ多勢に無勢でやられてしまうだろう。

 上杉が漁夫の利を得ようと、慌てて南下してくる可能性もある。

 一揆が準備を整える前に帰還しなければ。

 長可は飯山城の野呂隊五百を回収するため、さっそく豊前・小倉の部隊を送り込んだ。

 同時に上野国の僚将・滝川一益に伝令を送る。

 あの忍びあがりの武将なら本能寺の一件についてもすでにしっているはずだ。

 あそこには前田利益をはじめとして疾風の如き騎馬隊が揃っている。

 おそらくもう動きだしている。


「……滝川どのからは連絡はないのでしょうか」

「あやつからは何も言ってこないだろう。奴の考えそうなことなどわかる」

「どういうことですかな」

「一益ならば、きっと上様と若様を討った明智を葬って天下人にでもなるつもりで動くだろう。そして、おそらく同じ考えの奴ばらはたんとおる。どいつもこいつも早速安土に群がっているはずだ。わしが帰還して頃にはすべてが終わっているだろうよ。……そうさな。どうあがいても間に合わないのは、中国の秀吉ぐらいだろうさ」

「羽柴どのだけですか」

「ああ。あとは間違いなくわしだ」


 信濃から美濃に向かうためには甲斐と上野を抜ける必要があるが、そこは川尻秀隆と滝川一益がいる。

 同じ天下人を狙う駆けっこならば長可はとうてい間に合わない。

 ただし、南下する上杉の圧力から抜け切れれば、旧武田領のど真ん中の河尻勢、北条の勢力圏内に近い滝川勢に比べてはるかにたやすいはずだ。

 まずは芋川親正の弔い合戦に燃えているはずのこの一帯を突き破ることが必要ではあったが。


「徒士の槍足軽どもには長槍を切って短くして持たせろ。食い物は七日ぶんだけにするようにきつく申し付けろ。金山城に帰るためのぎりぎりの糧食だけにさせよ」


 荷物を運ぶ荷駄隊の負担も軽くするため、糧食は干し飯と味噌玉だけにした。

 酒はもたさず、水もできる限り軽くさせる。

 中には酒を隠し持とうとする兵もいたが、主幹の武将たちの一睨みでどばどばと道端に捨てさせた。

 これによって荷駄隊は実戦部隊と同様の速度が出せるほど軽くなる。

 野呂隊と合流した豊前隊が彼らを率いることになったのは、いざとなれば彼らにも戦わせるという長可の意思表示であった。

 六月十日の段階で森勢の美濃帰還のための準備はすべて整った。

 本能寺の変が六月二日未明、海津城に一報が届いたのは七日夕刻、たった三日で二千人の退却の支度ができたのは長可が旗下の舞台を完全に掌握していたからである。

 十一日の未明、陽が昇る前に出発することに決まっていた。

 問題となったのは、ただ一つであった。


「殿、人質はいかがいたしましょうか」


 岩沢が聞いたのは周辺豪族から一揆後にとった女子供の人質のことである。

 昨日の段階で信濃のものたちの間でも本能寺のことは広がりつつあり、元武田家の武将春日周防の煽動のもと二か月前の一揆勢が新たに集まりつつあったのだ。

 ただし、ほんの少し前に森勢によってつけられた恐怖の傷跡は生々しく、すぐにでも海津城を取り囲むような真似はしなかった。

 代わりに、


『この地に御入郡なされた際に取られた我らの人質が森どのもとにありまする。御上洛されるというのなら、人質は尽く返していただこう。然らずば、この地の国人達は兵を以ってあなた方を追撃し、または街道の切所にて遮ることも在るべし』


 という要求をしてきていた。

 森勢は及ばず、主君の討ち死によって浮足立っている織田家の家臣の足下をみた、まさに恐喝といってもいい主張だった。

 海津城内において寝ずに帰還の支度をしていた長可はあっという間に激怒する。


「上様に不慮があったことを知ったとたん、このような恐喝してくるとは、貴様らはわしをどれほど侮っておるのだ。舐めるなよ。―――いいか、人質どもは返さん。わしを討とうというのならば、逆にわしが貴様らを皆殺しにして、上様への手向けとしてくれるわ! わしは明日にはここを出る。質を取り返そうというのなら、このわしと戦うがいい!」


 使者を殴りつけて追い返した。

 このとき長可は、


「高遠の保科の小僧に比べれば、耳も鼻も削ぎ落とさないだけ有難く思うがいい」


 と嘯いた。

 とはいえ、小兵でありながら化け物じみたい膂力を誇る長可に思いっきりぶん殴られ使者の顔は石の落ちた泥沼のように歪んだ。

 使者が這う這うの体で城から逃げ出していったあと、一揆勢になんの動きも見られなかったことから、ついさっきまで人質のことを忘れていた。


「そんなものもいたな。……よし、ついてこい」


 長可は城の外れの長屋に軟禁状態であった三十人の人質のもとに赴いた。

 その中には春日周防の嫡子勝助もいる。

 勝助は、もともとは庄助というのだが、長可自身が烏帽子親となり、名前を変えさせた少年である。

 海津城に入った際からの人質だが、思うところがあって将来的にはとりたててやろうと考えていたのだ。

 だから、なんと森の姓まで与えた。

 彼には珍しい心遣いだったと言える。

 だが、父親の春日周防が敵対する以上、人質は所詮人質だ。

 邪魔ならば殺すしかない。


「勝助。貴様、今のなりゆきは把握しているか」


 長屋の別室に一人だけ隔離されるという、他の三十人とはやや違う取扱いを受けていた勝助は顔を上げた。

 挨拶もなにもなく端的に訊ねてくる長可との会話にはもう慣れていた。


「はい、殿さま」

「では、貴様の父親がわしが困っているのを見計らって難癖をつけてきたのも知っているか」

「……お城の方々が噂しておりました」

「ならばいいな。わしは貴様らを親元には帰さんし、面倒になったらぶったぎって捨てていく。なに、それほど長い付き合いではない。お互い、相容れぬ敵だったと思えば気も楽だろう」


 長可は一揆勢と大蔵で戦ったときも、女子供の区別を問わず皆殺しにした男である。

 数えで十三歳の勝助さえ、気に入らなければ人間無骨の錆にすることに躊躇いはない。

 ただ、自らの手で元服させた少年を一言もなしにぶち殺すのはやや気が咎めたというだけである。

 目の前の長屋にいる人質はもう何の価値もない。


「殿にお願いの儀があります」

「なんだ」


 突然、伏せていた顔を上げた勝助が言った。

 怪訝に思えるほど真剣な顔で。


「命乞いか」

「はい」

「してみろ」

「はい」


 父親のせいでもうすぐ殺されることになる少年はゆっくりと口を開いた……

 


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