鬼狩りの罠
氏重は足元に無様に転がっている二人の化け物じみた武士をみて安堵していた。
まともに正面からやりあったら十中八九殺されているだろう相手だからだ。
安田作兵衛。
可児才蔵。
どちらもただの武士ではない。
可児才蔵が信忠亡き後、弟の織田信孝のもとにいくまえ、わずかに森長可に仕えていたことがある。
長可は東美濃統一のため諏訪山の城を攻めていた。
その途中、梶田という土地に駐屯して大森上恵配下の首実検を行ったところ、森勢は約四百六十の首級を集めていた。
この時、才蔵が首を三つだけしか持ってきていないのを不審に思った長可が問うた。
「おまえは三つだけか。少ないな」
しかし、才蔵は、
「十六、獲ってきた」
と、答える。
口に出した数と持ち帰った首の数が合っていないにも関わらず、才蔵は平然としたものだった。数が合わない理由を尋ねられても、
「いくさ場でたくさん獲ったのですが、持ち運びが邪魔だったので捨ててきました」
「さきほど数を数えさせたら、四百六十の首級があるぞ。貴様が獲ったという印か証人でもあるのか。そうでなければ信じられんな」
幼馴染といえど、うその報告をすれば罰せざるを得ない。
小規模の森勢では軍監も少なく、いくさでどのような手柄をたてたのかは自己申告にかかっている。
うそをついて手柄を水増しするのは、ご法度だったからだ。
才蔵は両腕の鎧に仕込んだ笹の葉の飾り物を示して、
「俺が獲った首には、笹の葉を咬ませてりますのでご確認ください」
長可が家臣に命じて確認させると、四百六十の首級の中に十三だけ、口に笹の葉を噛ませたものがあった。
持ち帰ったものと合わせて、十六。
才蔵の申告の通りであった。
いかに勝ち戦の最中とはいえ、討ち取った獲物の口にいちいち笹の葉を噛ませるという信じ難い余裕と落ち着きは尋常ではない。
このときの逸話を含めて、敵の首に笹の葉を噛ませるやり方をし続け、彼は笹の才蔵と呼ばれるようになったのである。
宝蔵院胤栄から授かったという三日月槍と合わせて、戦国の世に鳴り響く豪槍の持ち主なのであった。
もう一人の安田作兵衛もまた化け物である。
明智勢が囲い込み幾百もの火矢が放たれ、焼失寸前の本能寺にたった一人で飛び込んでいき織田信長に一番槍をつけたという信じ難い経歴の持ち主なのだ。
しかも、森蘭丸という新当流の剣客を退けて。
とてつもない経歴の持ち主どもといえた。
まだ、初陣もすませていない氏重では叶うはずもない化け物だ。
しかし、ここで怯んでいてはなすべきことができない。
氏重が自分の城である傍示本城を出て、美濃にこっそりと忍んできたのは怯えて動けなくなるためではない。
しかも、彼の本当の狙いはこの二人を越えるかもしれない危険な相手なのだ。
怖気づいてはならない。
彼は武士なのだ。
「―――重盛。油はあるかい?」
「あ、松明のものなら一壺あります」
「この二人にぶっかけておいてよ。暴れたらすぐに火をつけるようにね」
ぎょっとする作兵衛たち。
氏重のいったことは、すなわち彼らを焼き殺していいということだからだ。
いかに戦場往来では怖いもの知らずで敵を殺しまくってきた二人でも火にまかれたら死ぬしかない。
しかも、投網に包まれて身動きが取れない状態で油をぶっかけられたら、ちょっとした火花でお終いになる。
ぴちゃぴちゃと才蔵の背中に液体が落ちてきた。
氏重の命に従って、長巻きを背負った鈴木重盛が壺の中の油をかけたのだ。
一壺ぶんの油まみれになった二人はさすがに動くのを止めた。
(おい、小柄とかは持ってきていないのか)
(てめえは?)
(あったらわざわざ聞いたりはせん)
(役に立たない奴だ)
(おまえもだ)
こそこそと会話をするが、すぐそこで聞き耳を立てている見張りがいるので下手な動きはできない。
まさか、これほどまでに呆気なく捕縛されてしまうとは……
「おい、丹羽の茶坊主」
「なんですか」
氏重は緊張を緩めることはしない。
二人を捕らえた直後から、別の指示を家臣たちに告げて、自分は油断することなく見張りを続けている。
少し離れたところに須賀四郎衛門が矢を番えた弓をいつでも放てるように備えていた。
狩人らしく森の中に入ると気配がたちまちなくなってしまう。
隻眼の視線でさえ人間というよりも野生のケダモノのように意志がなくなる。
作兵衛はさきほどの違和感の理由を知った。
あれはこの男が彼らを見張る視線であったのだ。
武士ではなく狩人の眼差しだったのである。
実際のところ、四郎右衛門と六蔵の二人の狩人が森に入ったときからずっと彼らを追跡していたので間違いではない。
その他のものたちは、勘の鋭い彼らを恐れて盗み見ようともしなかったので罠が看破されずにすんだのである。
「おまえはあの姫さんを助けに来たのか」
「はい、そうです」
「いい度胸じゃねえか、隣の国に一人で忍び込んでくるたあ。見直したぜ」
作兵衛はまさか丹羽の兄弟が単身人質を助けにくるとは想像もしていなかった。
しかも、剛力無双な氏次ならばともかく、この青臭い小姓みたいな餓鬼が……
「あんときは、蘭丸に似ていたから相手をしてやる気になったが、気が変わった。やっぱり俺がうぬを仕留めてやる」
「残念ですが、私はあなたのことはどうでもいいんです」
氏重は睨みつけから目を逸らした。
正直なところ、作兵衛を相手に気力を浪費している余裕はない。
彼が待ち受けているのはもっと別の獲物であるからだ。
「……氏重さまが直接あの鬼武蔵とやりあうのは無茶ではないでしょうか。それよりもこの二人を人質にして姫さまとの交換を要求する方がいいと思います」
捕獲した二人が簡単に逃げられないように投網を地面に張っていた重盛が言う。
重盛は氏重にとっての直臣ともいうべき存在なので、主人の無茶な行動に異議を唱えたかったのである。
敵国といっていい美濃、しかも金山に少人数で潜入するという真似がそもそもおかしいのだ。
人質である萩姫を救うのであったら、本来は外交交渉や身代金を支払うことで取り返すのが常道である。
だが、森は丹羽家と生家の加藤からのあらゆる呼びかけを無視して、萩姫を返そうともしない。
氏重が自らやってきたのはもう座して待つのに耐えられなかったからである。
「それが通じる相手ならばね」
森長可の側近二人を無傷で捕獲したのだ。
本来ならばそれで戦略的には価値のない萩姫との交換交渉に持ち込めるはずである。
しかし、それはとてつもなく困難だと判断していた。
可能性すらもない、と。
(当り前だよね。武蔵どのの望みは兄上と戦うことなのだから)
丹羽家側からの行動がすべて空振りに終わった理由を氏重は理解していた。
戦国の世の武士が第一に考えるのは、家と名誉であった。
やや頭がおかしいものにとっては、いくさに参加することなどもある。
だが、今の森長可の戦いのモチベーションとでもいうべきものは、信じ難いに程に非常識でイカれたものだった。
ただ敵と見定めたものと正面から雌雄を決したいという欲望なのである。
森長可の好敵手として見込まれたのが丹羽氏次という豪壮の武将だったということだけだ。
なぜ、そんな風な考えに長可がいたったのかは氏重にもわからない。
わかるのは、上諏訪での出会いとあの岩崎城での再会のときの印象だけである。
その印象と本能寺の変以降の異常ともいえる戦歴が物語っていた。
(立ちはだかるてごわい敵といくさをし、それを討ち滅ぼすことだけがあの鬼の生き様なのだ)
つまりは、自分が認めた敵と満足できる戦いをすることだけが長可の望みなのである。
岩崎城を襲撃したことも萩姫を攫ったことも同じ。
丹羽氏次に対する蛇の執念だけが鬼武蔵を動かしているのだ。
「―――だったら、正面からやりあうしかない。この二人を盾にすれば武蔵どのも私との果し合いに応じてくださるだろう。それで私があの鬼を退治すればいいんだ」
鬼退治。
かつて上諏訪で織田信長に告げた決意をここで果たすことになるとは思いもしなかった。
ただし、あのときに氏重が脳裏に思い浮かんでいた鬼はまた別のものであったが、今となってはそれも仕方ない。
もっとはっきりとした〈鬼〉が、確かに彼の前に立ち塞がっているのだから。
(勝てるとは思わない。しかし、武蔵どのの性格ならば私の挑発にのってくれるはず。それにつけいるしか道はない)
幸い、血の気の多い森勢の中でも長可以外に一、二を争う狂人の二人は捕らえてある。
この淵での仕込みをする間に調べた限りでは、あのときの四騎のもう一人である真柄直澄はいくさ場以外では温厚で思慮深い部類に入るらしい。
長可との一騎打ちを所望したとしても、主人を押しのけてでも横から割って入ることはないだろう。
あとは氏重が勝利してみせるだけだ。
須賀六蔵が首尾よく長可宛の手紙を届けてくれればいいのだが……
こんな無謀な思い付きが通るかどうかはすべて森長可の人物像にどれだけ氏重が接近したかにかかっていた。
そして、実のところ、その読みは的を射ていた。
森長可はわずかな手勢とともにこの淵に向けて出発していたのである。
このまま行けば、およそ一刻後には鬼武蔵と丹羽氏重の果し合いが繰り広げられているはずであった。
しかし―――
「若、危ない!!」
四郎右衛門の弓から矢が放たれた。
氏重の脇を抜けて飛んでいくが、その矢が弾き飛ばれた。
横合いから叩き落されたのである。
凄まじい動体視力の持ち主であった。
それだけでなく、冴え冴えとした月光の降りしきる中、森の夜に紛れて動く漆黒の肌をそなえた影でもあった。
「飛騨ノ黑影」
氏重の首筋に朱い筋が走っているのは、わずかに四郎右衛門が遅れれば刃で掻き切られていた証しである。
「……おまえのことを忘れていたよ。あのとき、萩を攫ったのはおまえだったよね」
氏重は鋭く抜刀した。