淵の龍神
木曽川は美濃の国を貫く重要な河川である。
川幅もそれなりに広く、美濃にある大きな城や町はだいたいその近辺に位置しているのは、利便性が高いからであろう。
森家が守護する金山城も木曽川の傍にある烏ヶ峰に築城されていることからもそれはわかる。
金山城の脇をぬけ、しばらくすると飛騨川が流れ込んできて、ここから多少水害が起こりやすく、織田以前の支配者たちは苦心していた。
やはり水量が物理的に増えるだけで水が起こす暴力的な災害は人の手にはあまるということだろうか。
やや下流にある犬山城と現在は桃太郎神社がある地域は頻繁に水があふれたと言われている。
人々はできる限り水害を避けつつ、木曽川の恩恵を受ける場所で暮らすように心がけていた。
その中に、奥美濃屋という造り酒屋があった。
美濃のみならず、近畿一帯でもそれなりに名前の売れた造り酒屋であったのは、「恵土の華」という酒を造っていたからである。
やや辛口であったが甘みがあり、酔いも上品という評判の名酒であった。
卸して売るだけでなく、その場で売るということもしていた。
ここしばらく、金山では大きないくさも起こらないせいか、奥美濃屋にはひっきりなしに客がやってきて、商売は繁盛していた。
―――その侍の異常に気がついたのは、店主の妻であった。
ここ数日、毎日のように夕方の陽が落ちる寸前にやってきては空の徳利をあずけて、いっぱいになるまで恵土の華を足すように求めた。
華美ではないが大層立派な身なりをしているし、代金を値切ったり渋ったりしない上客だと最初は思っていた。
だが、問題は徳利と支払われた銭であった。
徳利はどうみてもそのあたりの水飲み百姓がもっているような安物で、しかも毎日違うものを持参してきた。
銭は銭で赤錆びて、どこかで野晒しにされていたような古めかしいものばかり。
身なりの良さとは裏腹に、それなりに高い身分の侍が使うようなものとは到底思えない。
とはいえ、毎日やってくるお得意様だ。
多少怪しくても店の酒を買ってくれるのならば気にする必要はない。
しかし、侍が現われるようになって一週間してから、徳利を受けとって奥で酒を入れようとしていた店の者は、徳利の中に泥が詰まっていることに気がついた。
やはりさすがにおかしい。
店の者から事情を伝えられた店主は、別の丁稚を呼び出して、侍のあとをつけるように命じた。
「ここのところのお得意さまだが、どこのどなたなのかを知っておく必要がある」
「はい、旦那さま」
丁稚はそっと跡を追った。
徳利を受け取った侍は警戒する様子も見せずに街道を歩きだしたが、突然、鬱蒼とした森の中へと踏み込んでいく。
このあたりで生まれ育った丁稚は、この森の奥には誰も住んでいないことを知っていた。
あのような身なりの整った侍が住んでいるはずがない。
猪や鹿などの野生動物ぐらいしかここには棲みついていない。
繁茂した木と木曽川の淵があるだけで、湿気の多い澱んだ場所である。
森の中をするすると流れるように進んでいく侍の姿が突然消えた。
慌てて侍の消えた場所にいっても、姿かたちはどこにも見当たらなかった。
ただ、ドボンという何かが水に落ちる音が聞こえた。
そちらを見ると、大きな水溜まりがあった。
澱んだ水がこもっているが沼よりは流れがあるので、木曽川の淵であることがわかる。
「ま、まさか、ここに落ちちまったのか!? お、お侍さま!! ご無事でございますか!? お侍さまあ!!」
近寄ろうとしても足元が湿っていて底なし沼のようなきがしてならない。
これ以上はもういけない。
それに淵には落ちたはずの侍は見当たらない。
まるで底にまでいって消えてしまったかのようだ。
「ひぃ!!」
丁稚は淵の奥に白い何かが漂いつつ遠ざかっていくのを見た。
まさか、あの侍が―――あれなのか。
脳裏にこのあたりに伝わる昔話が浮かんでくる。
(そういえばこのあたりには龍神さまを祀る祠があったはず。もしかしてさっきの侍の正体は祠に棲みついた妖怪なのか!?)
そう思いつくともう我慢できなかった。
丁稚は涙と小便を垂れ流しながら淵から回れ右をして、逃げ出していった。
泥と土で真っ黒になりながら奥美濃屋に戻った丁稚は、待ち構えていた店主と妻に事情を説明する。
店主もこの地域の出身だ。
森の奥に祠があるのも知っていたし、その祠の龍神に仕える白蛇の昔話も聞いていた。
すぐに事情を理解した。
「あの侍が龍神の下僕だとすると、あの徳利にいれた酒はお神酒になって、錆びた銭はお賽銭に違いねえ。なんということだ」
毎日、侍と接していた店主の妻は高熱をあげて床に伏せ、龍神の使いの噂はすぐに町に広まった。
金山はそれなりに栄えているとはいえ、ごく普通の町だ。
住人全てがその話を知るのに二日はかからず、城に通う商人を通じて城の侍に伝わるまで三日はいらなかった。
当然、城主である森長可の耳に届くのもあっという間であった。
「木曽川のほとりの森に化け物がでたというのかよ?」
「ええ、まあ。奥美濃屋の丁稚が見たそうです。おかげで、街道沿いの店のいくつかが夜でもないのに早じまいをしてしまっているようですな」
「ですから、なんとかしてあげてくださいな、殿」
長可に話を持ってきたのは、妻のお久である。
古今、この手の噂話は女性たちを通じて伝播していくものであり、お久の耳に入れたのは彼女の侍女、侍女に教えたのは出入りの商人、商人に商談のときの種として吹きこんだのはその妻という順番であった。
女の口に戸は立てられないとはよくいったものである。
お久としては、領民たちがよくわからない物の怪に苦しめられているのならば、ぜひ領主である夫になんとかして欲しいという思いをもっていた。
だからこそ、わざわざ奥の館からでできた夫に告げたのである。
これから先についての軍議をしていた側近のものたちを無視して、のしのしとやってきた城主の奥方は開口一番告げたのが、
「なんとかしてあげてください」
であった。
「本当に化け物が出たのか?」
「町の連中はそう噂している。おれのところの用人も出入りの野菜売りから聞いたといっていたぞ」
「まことか」
朝から続く軍議に飽きていたのか、その場にいた家臣たちも隣のものと雑談を始めた。
今のところ、特に緊急性のある議題はない。
ちょうどいい息抜きであったる
「なんだあ、そりゃあ。おい、詳しく教えてくれよ」
愉しそうに問いかけたのは安田作兵衛である。
この男、実は魑魅魍魎とのやりとりを経験したことがあった。
ゆえに摩訶不思議な事態が起きていることを自然に受け止めてしまう。
「―――知らん。わしに聞くな」
「こっちも同じだ。そもそも、俺は城にも町にも縁者がおらん。噂など運んでくるものがおらん」
端の方にどっしりと座り込んでいた真柄直澄と可児才蔵がつまらなそうに答える。
この三人は譜代の家臣団ではないことから、本来は側近を集めた軍議に参加することは認められないはずなのだが、長可を長とする森家の家風から特別に許されていた。
とはいえ、あくまで食客扱いであり、話を振られない限り発言することは滅多になかった。
ただし、長い軍議の間ずっと黙っているのはさすがに飽き飽きしていた。
「ふーん、真柄の旦那よ。あんたはわりとここに長いんだろ」
「わしは可成どのに助けられて、宗兵衛どのの屋敷で世話になっていただけで、何もしておらんし、誰とも一緒になっていない。長可どのが甲斐攻めにいくため金山を留守にする間の守りを引き受けただけだ」
「甲斐攻めにはほとんどの将兵を引き連れていかざるを得なかったからな。残ったのは森宗兵衛どのと二百の兵士。確かに、それだけの寡兵しか残っていないのならば、旦那ぐらいの武人がいなけりゃあ困るわな」
「逆だろう。真柄どのがいたから二百程度しか残さなかったんだ」
「買い被りすぎだ」
真柄直澄はこの年四十五歳。
武人としてはそろそろ限界といっていい年齢である。
しかし、この時代では規格外といえる巨躯は多少の若さを失ったとしても十分に機能する。
実際、長可が信濃から帰還後の東美濃平定のための戦いのさなか、絶対に傍を離れない護衛として貢献し、ほぼ主人を無傷で護りきったのである。
その後、織田信孝に人質としてだしていた千丸の奪還作戦にも真柄は参加している。
姉川の戦いで瀕死になっていたところを森可成に救われ、傷が癒えて目を覚ました時に恩人が戦死していたことを知って以来、恩を返すために生きてきた。
浅井・朝倉が滅び、真柄一族が各地に離散してしまったのち、もう帰るべき場所もなくした真柄直澄はただ恩を返すためだけに森家に養われていたのである。
正式な家臣としてではなく食客としての扱いだが、それでも不満はなかった。
「ならよ、才蔵。おれとその化け物退治にいかねえか。どうせ、しばらくはいくさもねえ。池田どのが美濃と尾張をうまくまわしていくのを高みの見物するだけだからな」
「戯言はよせ。俺はおまえと違って化け物退治などやらん。やりたくもない」
「いやいや、あれはあれで楽しいもんだぜ」
作兵衛が才蔵に馴れ馴れしいのは、かれらがもともと幼少時からの幼馴染だったからである。
この二人に長可を加えた三人で、幼少期はよく過ごしたものであった。
十三歳の時に長可が森家の当主となったのを契機に、才蔵は信忠のもとに仕え、作兵衛は明智光秀配下の斎藤利三のもとにいった。
そして、回り回って三人の幼馴染が再び集ったのが、この金山城というわけである。
おかげで三人の関係はやんちゃ坊主時代の延長的な部分がたぶんにあった。
三人のやりとりを聞いていた長可が少し考えてから言った。
「おい、才蔵、作兵衛。貴様らで行ってこい。ちょうどいい、行きたいんだろ。―――龍神だろうがなんだろうが、わしの領内で狼藉を働くというのならば沙汰は同じだ。始末して来い」
「えっ」
すると、それを聞いたお久がぱんと両手を叩く。
「そうですわね。お二人ならば、どんな物の怪が現われても大丈夫ですね」
天真爛漫な少女がそのまま成人したようにあどけないところのある池田恒興の娘は、夫の提案を簡単に支持した。
長可としても、これ以上妻に食いつかれるのも面倒だと見て、わけのわからない化け物関連の事象を家臣の範疇に含まれない幼馴染にふることに決めたようである。
「ついでだ、黑影もつれていけ」
作兵衛がその命令に異議を唱えた。
「あいつは信雄さまのところから帰ってきたばかりだろ。休ませるべきじゃねえか」
「いや、少し気になることがあってな」
長可が少し思案したのには理由がある。
お久が仕入れてきた噂の中に、
『その身なりのいい侍は、みたこともないぐらいに美しい若者であった』
というものがあったからである。
そして、長可の野生の動物にも似た勘が異常なほどの警戒を発したのであった。




