天正十一年、夏
天正十一年のこの頃、徳川家康はどのような立ち位置にあったのであろうか。
本能寺の変のとき、堺を見物していた家康は、命からがら畿内を脱出するだけで精いっぱいであり、その間に秀吉による弔い合戦が終わってしまっていた。
もっとも、織田家の後継者争いが始まるとみるや、すぐに甲斐と信濃という旧武田領への侵攻を始めて、可能な限りの領土の拡大に専念する。
北と東から上杉・北条がちょっかいをかけてくる中、北条に上野国を渡して和睦をすることでなんとか十月末には信濃・甲斐を手中に収めた。
北条氏直は、さほど領土的野心のない人物であったからか、上野一国で満足したらしい。
問題となるのは上杉だけであったが、時期的に南下してくることはなかった。
徳川が領土拡大を進めている間も織田家の後継者争いは進み、徳川を除いた諸将による勢力争いは激化していた。
山崎の戦いで信長の仇を討った、秀吉と形ばかりの大将である信孝が優勢となると、蚊帳の外にいたはずの家康を利用しようと信雄が接近してきた。
天正十一年の正月に信雄が尾張清州から三河岡崎まで出向いて、両者は会談をする。
信孝には柴田勝家が、信忠の嫡子三法師には秀吉がついている以上、信雄としては家康を味方につけるしか方法がなかったともいえる。
家康は二つ返事で信雄の味方をすることに決めた。
これには幾つもの計算があったが、もっとも強い理由としては、信雄に軍事的才能がなかったということになるだろう。
この信雄という男は父親とも兄とも違い、将としての才覚に欠けていた。
特に目立つのは、天正七年に信長に無断で侵攻した伊賀における大敗戦がある。
伊賀は忍びの土地である。
土豪の一揆勢がとてつもなく地の利を活かした戦術をとり、ほとんど無策に近い織田軍を完膚なきまでに叩きのめした。
この戦いで重臣の柘植三郎左衛門らが戦死するという甚大な被害を受ける。
このとき、信長は石山本願寺攻めで忙しく戦っていたうえ、信忠も石山本願寺に加担し裏切った荒木村重の討伐で懸命の時期であった。
織田家全体が大変な情勢にあるときに勝手に兵を動かし、しかも敗戦するなどとうてい考えられることではない。
とあるイエズス会の宣教師に、「暗愚である」と評されたのは当然であった。
信長は暗愚な息子にけん責状を送り付け、散々罵った後、以後は重大な戦いには二度と参加させない姿勢をとる。
しかも、彼は本能寺の変ののち、何を思ったか安土城を焼き討ちしてしまう失態を犯した。
伊勢にまででていた彼は、まだ城内に明智光秀の女婿明智秀満の部隊がいるものだと勘違いして、火を放ってしまったのだ。
暗愚なだけでなく粗忽ものであったともいえる。
これだけで軍事的才能はまったくないと断言できる。
さらに、政治的なセンスにも欠けていた。
四国に行く予定であったため大軍を率いていた信孝を警戒した秀吉が、独自に三法師を担ぎ上げたとみるや、秀吉についたのである。
織田家の有力武将である柴田勝家が信孝についたことで対抗意識をもったからとも思えるが、この段階でそれなりに知恵のあるものは秀吉が織田家を盛り立てるよりも自分が後継者になろうと画策していることがわかったはずであるのに、だ。
ここでも信雄の為政者としての器の足りなさが露呈している。
この段階になってようやく有力な武将である家康と接触するというのも遅すぎた判断と言えるだろう。
結局、織田信雄という男は件の宣教師の言葉を借りるまでもなく、どこまでも「暗愚」だったのかもしれない。
しかし、だからこそ、家康は信雄を担ぎ上げることにしたのである。
(柴田、羽柴に対抗するためには仕方なし)
家康のお人好しな側面が働かなかった訳ではないだろう。
後に「律儀な内府」と揶揄される彼らしいといえばらしい対応であったともいえる。
賤ヶ岳の合戦が終わり、勝家が敗れると一気に勢力争いが秀吉に傾いていく。
ただ手を拱いていた訳ではないが、家康が自分の領地拡大に明け暮れている間に秀吉との格差は広がっていってしまう。
信雄が愚かにも秀吉に唆されて異母弟信孝を自害させるということまでして、わざわざ織田家の力を自ら削いでいったこともあり、すでに趨勢は決まりかけていたともいえる。
家康はのちに自分を裏切る石川数正を使者として、高価な茶器を送るなどして表立って敵対することを避けていたが、信雄によって秀吉との戦いをせざるえない雰囲気ができあがっていく。
天正十一年の六月ころ、徳川家康はそういう立場にあったのである。
「能モ参タル」
徳川家康の事績を記した「東照軍鑑」の記述によれば、丹羽氏次とその一党郎党が浜松城に逃げ込んだのは六月十七日のことであり、その際、家康はそう歓迎の言葉をかけたそうである。
さらに、
「上方ノ様体一々聞キ給ヒ、若シ御上洛サレ候ハバ、尾張両国ノ案内者ニ成サレ」
と言ったという。
氏次はそのまま榊原康政の下につくことになった。
なぜ、氏次が家康のもとに走ったかについて、徳川方の資料では「寛永諸家系図伝」「譜牒余録」などには「勘気を蒙り」とあり、丹羽家側からは「信雄之サカラフヲ以テ、去リ」とあるだけである。
丹羽一族が出奔した岩崎城は織田信雄の直轄となり、城代もおかず、そのまま接収された。
氏次の一族郎党は、三河三ヶ村にしばらくの間は落ち着くことになった。
ただし、病に臥せっていた前当主氏勝は岩崎城を離れ、氏重が城主をしていた傍示本城へと移った。
氏重も顔が溶け崩れる業病にかかっているということを理由に傍示本城にひきこもった。
どれほど信雄軍のものが呼びかけても決して表には出てこなかったという。
信雄も、氏次が家康の庇護下に入ったこともあり、岩崎に残った氏勝、氏重を無理に処分しようとはしなかった。
こうして、丹羽氏次と氏重の兄弟はほんのしばらくの間、歴史の表舞台にでることはなかった……
◇◆◇
森長可の本貫地は、美濃国可児郡金山である。
木曽川の中流左岸の川岸にある。
古くは中井戸荘と呼ばれ、烏ケ峰という山があり、そこに築かれたのが金山城だった。
斎藤大納言正義という武将がまず烏ケ峰城を築き、その後、斎藤龍興の後見人となった長井隼人が城主になり、斎藤家が織田家に吸収されると長可の父の可成が入城した。
森可成は烏ケ峰城に入ると、烏ケ峰山と木曽川で囲まれる地に城下町を建設して、城の大改修に着手する。
その際に、烏ケ峰城から金山城に改称した。
金山と米田島を合わせて七万石が森家の領地であり、城の中央にある金山の館が長可の住処であった。
長可の妻である久と母の勝寿院、一人娘の甲、そしてただ一人生き残った弟の千丸という家族とともに暮らしていた。
鬼武蔵という異名だけをみると、いくさしか能のない武辺者と思われなくもないが、実際には金山の町割りをして美濃でも有数の都市に仕立て上げた父の才覚を引き継ぎ、かなり優秀な為政者でもあった。
しかも、この頃、美濃は完全に平定されていて、国主の地位に長可の舅である池田勝入斎恒興がつき、大垣城を拠点としていた。
その長男元助が岐阜城、次男輝政は池尻城に入り、娘婿である長可としてはほぼ自分たちの味方で固められたことになる。
つまり、美濃一国が完全に長可の城となったに等しいということだった。
ゆえに金山の町は天正十一年の夏ごろは非常に平穏を満喫していたといってもいい。
それは金山城とて例外ではなかった。
当主の妻と母が住む奥館において、ささやかな酒宴が催されていた。
参加しているのは長可の妻である久とその侍女たち、長可の弟である千丸、その付き添いをしている小姓姿の少年、そして加藤景常の娘、萩姫であった。
「はい、お飲みなさいな」
「いえ、奥方さま。私はお酒が飲めないのです」
「そうなの。もう、あなたぐらいの年頃ならばお酒の一杯二杯は飲めるようになっておかないと困りますよ。祝言もできやしない」
お久に勧められた酒をなんとか断って、萩姫はため息を吐いた。
このやりとりはもう三回目だ。
いったいあと何度繰り返せば済むのだろう。
好意から勧められているのはわかるが、そもそも彼女はこの城においての囚人でしかない。
歓待されたとしても素直には喜べなかった。
五月末に岩崎城で攫われてからすでに三月。
父親の景常、許嫁の氏重、親しくしていた丹羽家の一族、そして岩崎の民がどうなったのか、まったくわからないのだから不安しかない。
唯一、自分をここまで攫ってきた鬼武蔵の一党が、彼女を無残に扱おうとしないことだけは助かったとも言える。
実際のところ、長可の奥方であるお久とその侍女たちによって面倒をみてもらい、生活に不自由はなかった。
とはいえ、常に見張りがつき、逃げ出すどころか城外にでることさえ叶わなかったが。
「……わたしは岩崎にいつ帰れるのでしょうか」
酒宴を催していたというのに、ついもっとも気になっている疑問が出てしまった。
耳にしたお久の顔が曇る。
「わからないわ。殿さまは、あなたの世話をするように私に言いつけましたけれど、それがいつまでなのかは聞いていないから」
あの鬼のような男の妻にしてはおっとりとした美女である。
心根も素直で優しく、嘘を言っているとは到底思えない。
囚われの、ある意味では人質に等しい彼女をよく世話してくれた。
とはいえ、萩姫をここから逃がしてくれるまで親切ではない。
夫であり、金山城主である森長可の言いつけを破るまでの肩入れをしてくれることは考えられない。
「では、どうしてわたしをあの方は攫ってきたのでしょうか」
この疑問に対して答えたのは、お久の隣で茶を飲んでいた千丸であった。
「兄上の狙いはおぬしではないぞ、姫」
この千丸。
数年前までは織田信長の小姓として、つい最近は他家に人質として預けられていたからか、十三歳にしては大人びていた。
兄の長可が森家の家督を継いだのが今の千丸と同い年であったこともあり、この家系の子供たちは通常よりも早く成長する定めをもっているのかもしれない。
「どういう意味ですか、千丸どの」
「兄上は、おぬしを助けに来るだろうものどもを待っておるのだ」
「助けに……」
ぱっと脳裏に浮かんだのは、美しい許嫁であった。
次に父親と義兄がでてきた。
彼女を助けるために動いてくれるとなると日ノ本広しといえども彼らしかいない。
「無理です」
だが、萩姫はばっさりと想像を切り捨てた。
いくらなんでも不可能すぎる。
この金山城のある美濃は池田恒興の領地であると同時に森長可にとってのホームグラウンドである。
こんなところまで女一人のために攻め込んでくるはずがない。
しかも、池田家と森家は羽柴秀吉の下につき、その秀吉は直接の競争相手である柴田勝家を討ち果たして、圧倒的な権勢を誇っている。
今、金山城を攻めればそれは秀吉とも敵対することになる。
そんなことはさすがの丹羽兄弟でもできないだろう。
「……そうでもありませんよ」
口を挟んできたのは、千丸の供である同い年ぐらいの少年だった。
格好だけは小姓のようだが、髪型からして元服は過ぎている。
「はて、それはどうしてなの、勝助?」
「奥方さまもご存知の通り、天下の趨勢は織田さまから羽柴秀吉さまに移りつつあります。石山本願寺の滅びた地に城を造営しはじめたころから、かのお方を上様と呼ぶ人々が増えているとも聞いております」
上様とは、天下人のことである。
歴代の足利将軍のみならず、信長が勢力を拡大したころには上様と呼ぶのが習いとなっていた。
秀吉があえて自分を上様と呼ばせていたのは、天下人になった、もしくは近いのは俺だという自負があったからに違いない。
「ですが、その上様になろうというお方にとってただ一人厄介な敵がすぐ近くにおられるのです」
「徳川だな」
「そうでございます、千丸さま」
勝助と呼ばれた少年と千丸はとても仲がいいことを萩姫も知っていた。
長可がほとんど千丸の側近にするために一緒に教育させているということもあるのだろうが、どちらも異常なまでに度胸のある子供たちだからであろう。
もっとも勝助について萩姫が知っているのは、田中という苗字だけである。
あと、妙に信濃訛りがあるということだけだった。
「三河と旧武田領を手に入れた徳川どのは、柴田どの、滝川どのを越える勢力を持ちながら、こと信長公の世継ぎ争いには介入しないという沈黙を続けております。これを諸侯はきっと不気味なものと思っているでしょうね」
「……確かに」
「ですから、次に大きないくさが起きるとすればそれは羽柴と徳川の間でのものとみるのが道理と考えまする」
それから、勝助は萩姫に向き直った。
まっすぐな真剣そのものの瞳をしていた。
「なんですか、いったい?」
その眼差しに心が揺れた。
何か大切なことを打ち明けられるときに感じるものに近い。
はたして、それは予感の通りであった。
「萩姫さま。今、丹羽氏次どのとその一族郎党は、徳川どののもとにおられます。それはきっと羽柴さまと―――いいえ、我が殿と雌雄を決するためとみて間違いなきことでしょう」
その事実を聞いたとき、思わず萩姫の目から一筋の涙が零れ落ちていった……




