元九十五話 起きたら何も覚えてなかった
気が付くと、俺は自室のベッドの上で横になっていた。
目覚まし時計のけたたましい音がBGMに加えられ、ほぼ反射的に目覚まし時計を叩く。
―――ん?今までどうしてたんだっけ…
寝ぼけのせいか遅れてきた疑問。それに答えたのは必死に走ってリリナの見舞いに行った記憶だ。
…見舞い?
なんでリリナが病院に?
それが呼び水となったように次々と溢れてくる記憶。
ジーナのメール、リリナの痛々しい姿、そしてあの言葉――
『貴方達は…誰ですか?』
その言葉から伝わる一つの状態。
記憶喪失―――リリナは、俺たちの思い出を持っていない。
ジーナの話によると、俺はリリナの言葉を聞いてからずっと呆然としていたらしい。
あの後すぐにナースコールして、リリナは問診に連れていかれた。
結果はやはり記憶喪失。
原因は頭部への強い衝撃。間違いなく、事故のせいだ。
検査の為、一週間入院するらしい。
それを聞いた俺たちは、面会時間が迫っていたため憂佳の車で帰ったとか。
…全く覚えていなかった。自分でも驚くほどショックだったのだろう。
リリナの入院についてはジーナが学校に連絡してくれた。記憶喪失の事も話したらしい。
バイトの日を除いて毎日お見舞いに行こう、なんて話もしたが、正直上の空だった。
心に穴が開いた…この喪失感は言い得て妙だ。
「よ!マナ!」
机に下ろしたカバンの中にある教科書とノートをぼんやり眺めていると、バシッと音がして、肩に衝撃が走る。
「………」
「…マナ?どうした?」
「ああ、達治か…おはよう。」
口に出たのはそっけない、心がこもっていない空虚な挨拶だった。
「お、おう…おはよう…
ホントにどうした?悪い物でも食ったのか?」
「そんなんじゃない…」
「マナ…?」
「…お前は聞いてないみたいだな。」
「何をだよ?」
リリナの入院とその経緯については、恐らく朝のホームルームで先生から話をされるだろう。
なら、わざわざ俺が言う必要も無いか…
「……後で分かる。」
「なんだ、そんな言い方して言わないのかよ…気になるだろ?今教えてくれよ。」
「……」
カバンに頭を埋める。
達治は諦めたらしく、そのまましばらくするとホームルームの鐘が鳴った。
「リリナ、入院したってホントかな?」
「だったらお見舞いに行かないとだよね。」
「でも、記憶が無いんでしょ?もし行っても怖がられるだけじゃない?」
「「それねー…」」
昼休み。昼食を摂り終えた俺は何をする気も起きず、ただ机に突っ伏していた。
すると自然にクラス内の会話が聞こえてくる。
今の女子の一団は、確かリリナと仲が良いグループだったか。
彼女らがリリナの記憶喪失を知っているのは朝のホームルームで先生が伝えたからだ。学校側も隠す気は無いらしい。というか一週間したら記憶喪失のまま来るかもしれないんだし、当たり前か…前もって伝えた方が混乱は少ないからな。
「リリナが事故で入院したって話、本当?」
鴨木さんの声が聞こえる。
「うん…それで、マナも昨日からああなんだ。
こっちの世界では一番長い付き合いだからね…それだけにリリナはマナと仲良くしてたし、マナもリリナと仲が良かった。
だからあんなに落ち込んでるんじゃない?一緒に住んでるわけだし。」
答えたのはジーナだった。
「それを言うならジーナも一緒に住んでる。けど、あんまり動じてないように見える。」
「そう見える?
あたしもかなりショックだよ…だって、あたしの目の前で…」
「…そう。辛かったのね。」
……
「皆リリナさんの話ばっかりだな。」
「そりゃそうだろ、クラスのマドンナが記憶喪失だぜ?他のクラスにも伝わってるらしいぞ。」
「一緒に過ごしたのは三か月くらいだけど、ショックだよな…」
「マナさん見てるとこっちまで辛くなってくるな…」
「そうだな…ジーナさんもあんなに楽しそうに笑ってたのに、今じゃ表情に影があるっていうか…」
「ああ…」
どうやら、クラス全体の雰囲気が暗くなっているようだ。
今までは近くを通った時に廊下から遠目にリリナを見る奴も何人かいたのだが、今ではちらりと見て暗い顔をするばかりだ。恐らくそいつもリリナが事故に遭ったことを知っているのだろう。
「マナ、起きろ。」
達治の声だ。
「マナさん、起きて。そろそろ先生が来るよ。」
田倉…って、もうそんな時間だったのか。
起き上がって時計を確認すると授業の十分前。
「なんだよ…まだ結構時間あるじゃねーか。」
「ゴメンゴメン。ちょっと話があって。」
「話?」
「放課後なんだけどさ、リリナさんのお見舞いに行かない?」
「……今日はバイトだから無理だ。」
「あ、そうだったっけ?」
バイトがあるのは本当だ。
しかし、正直リリナの見舞いには行きたくない。
アイツはリリナだけど、今までのリリナじゃない。
アイツと話すと、今までのリリナが本当に居なくなってしまったことを実感してしまいそうになるからだ。
決定的なことを言われた今でも信じられないのだ。
信じてしまえば、本当に終わるような気がして―――
「バイトならしょうがないな…次はジーナさんと鴨木さんを誘うか?」
「そうだね。
あ、でも鴨木さんは今日バイトだったような…」
「一応訊いてみないか?それで行けなかったら仕方ないけどな。」
「うん。」
2人が立ち去ったのを見て、また机に突っ伏す。
このまま昼休みは過ぎ、沈んだ気分のまま授業が始まる。
授業後に見返したノートは真っ白だった。
放課後に行ったバイトにも身が入らず、いつにも増して踏むドジが多かった。
あまりにも酷い、仕事とも言えない仕事を見た店長から今日は既定の時間の前に上がるように言われた。
気遣いだったのかもしれないが、それは戦力外通告も同然。
リリナの件で落ち込んでいた気分を更に落ち込ませてベッドに沈む。
授業は頭に入らず、バイトは失敗ばかりで客にも店長にも迷惑をかける。
…もういっそ、今日は休んでいた方が良かったかもしれない。
気分は落ち込んでいても、早すぎる時間のせいか寝付くには至らない。
もういっそ夢の世界に逃げ込みたいというのに、そうはさせてくれない。
「マナ?居るの?」
ベッドに横たわったまま視線をドアに向けると、ジーナがドアを開けてこちらを見ていた。
「なんで靴があるのかと思ってたけど、やっぱり居たんだ。
バイトはどうしたの?まだ時間内のはずだよね?」
「ちょっと、ドジ踏んじゃってさ。帰って休めって言われたんだ。
それより、そっちはどうだった?リリナのお見舞いに行ったんだろ?記憶は戻ってたか?」
「……記憶は戻ってなかったよ。
でも、昨日と違ってリリナの混乱も落ち着いたみたい。昨日はリリナも、何も思い出せなくて混乱してたみたいだったから。マナには謝っておいてって言われたよ。
あ、そうだ!まだ面会時間は終わってないし、今から行っても間に合うはずだから行ってきたら?タクシー代が心配なら、私が出すから!」
…そうか、バイト早めに上がったからまだ病院の面会時間を過ぎてないのか。
だが…
「…俺は、いい。今日は、止めておく。」
「マナ…?」
「俺、思ってたよりリリナの事…大切だったんだ。
昨日、病院に行った時から…リリナの言葉を聞いてから…記憶がずっと曖昧で、多分、今この時のこともうろ覚えになると思う。
これじゃ、俺の方が記憶喪失になりそうだな……
…不謹慎か。聞かなかったことにしてくれ。」
「今のリリナに、会いたくないの?」
「……そうかもしれない、いや、そうだな。
今のアイツの目、見てられないんだ。生気が感じられない、まるで抜け殻みたいな目をさ。
話す時も、多分前みたいな明るい馬鹿みたいな会話じゃなきゃ俺の心が持たない。」
「例え記憶を失っても、リリナはリリナだよ!
前のリリナと今のリリナは別人じゃない!正真正銘どっちもリリナなんだから!
なのにそのリリナと…向き合うことは出来ないの!?」
……
「…無理だ。」
「……意気地無し!」
バタン!と強くドアが閉まり、視界からジーナが居なくなる。
ジーナまで離れていくのか…俺の前から、居なくなるのか…
コンコン
ノックの音が聞こえる。
ジーナが戻ってきたわけではないだろう。となればマヤか?
「…入らないでくれ、もう寝るから。」
俺の言葉に反し、ドアは開かれる。
僅かな風を感じながらまたドアを見ると、そこには詞亜が居た。




