元二十六話 疲れまくってたのに逃げることになった
出来るだけ壁や床に注目して、周りの人間はぶつからない程度に出来るだけ最小限に視界の端にとらえる。
一か月近く女湯で練習し続けて最近ようやく慣れてきた。ただし気を抜くとぶつかるので油断はできない。
「毎回言ってますが、良いんですよ?目を閉じて私の肩につかまりながら進んでも。」
「それはそれで俺に注目が集まるから嫌だ。」
そんなことをすれば目立つ。何やってんだあの二人みたいな目で見られるのは避けられないだろう。
心は男のまま変わっていない。
俺は残念ながら不特定多数の全く知らない女性に裸を見られて興奮する性癖は持ち合わせていないので、出来るだけ目立たずに風呂に入りたい。フツーに恥ずかしいです。
知ってる人なら良いのかって?恋人以外は気まずくなるんで…
出来る事なら部屋に風呂があるマンションかアパートを借りたい…
「銭湯って初めて来た!」
じょうちゃんのテンションは上がり放題だ。まだまだ上昇するだろう。
「来たことなかったんですか?」
「だって家にお風呂があるし。」
家に風呂がある場合、故障したりきまぐれを起こしたりしない限りはそちらに入る。
銭湯に行ったことがない若者も今どきは珍しくないだろう。
「マナちゃん、背中流してあげるね!」
「あ、ああ。ありがとう。」
じょうちゃんが俺の前に回り込んできたのでやや焦りながら目を閉じる。何とか顔を見るだけに収められた。
すぐ横にあった風呂場用の低い椅子に腰を掛ける。俺はまず頭から洗う派だが、せっかく背中を流してくれるというのでじょうちゃんに背を向けてボディーソープを手渡すと、すぐにボディーソープが俺の手に返ってきた。
「コレって裸の付き合いって奴だよね!」
「そうだな。」
背中にぬるぬるしたボディーソープと手の感触が…手?
え?タオルとかじゃないの?直なんですか?ちょっと変な気持ちになってきたから止め
「お休みなさい、憂子ちゃん。」
「お休みリリナ!」
ちょっと待って、俺の部屋で寝るのは良いけどなんで俺のベッドに入ってるんだ?
そこにちゃんと布団があるじゃ…ああ、俺そっちで寝ればいいのか。
そうだな。レディに、それも年下なんだ、ベッドくらい譲らなきゃいけないよな。俺の配慮が足りてなかった。
「マナちゃんもこっちだよ!」
「そ、そうか。」
一緒に寝ろと。
まあ、心はともかく体は女の子同士だから別におかしくないよな。
「あったかい…」
人を抱き枕にするの止めてくれませんか?まだ夏は残ってますよ?
…と、こんな感じでじょうちゃんは俺にべったりだった。精神的にも物理的にも。
そんなこんなで翌日の夕方。じょうちゃんが帰る時間となった。
「まだ遊びたいなー」
「親御さんが心配するから駄目ですよ。また来週遊びましょう。」
「うん!」
「またなー…」
ただでさえバイトで疲れていたというのに、疲れを癒すはずの銭湯で疲れ、じょうちゃんが抱き着いてきたせいであまり眠れなかった。
今日もちょいちょいうたた寝してしまい、その度にじょうちゃんからイタズラされていた。危うくセカンド・キースもやられそうになった時は驚いて後ろに吹っ飛び思いっきり壁に背中をぶつけてしまった。おかげである程度目が覚めたが、じょうちゃんが残念そうな顔をしていたのが気になった。
「マナさん、送って行ってあげてください。」
「なんで俺が…見ての通り心身ともにボロボロなんだけど。」
「え!?付いて来てくれるの!?」
「……分かったよ。」
そんな笑顔を向けられて断れるか。
じょうちゃんの輝く笑顔に負けた俺はじょうちゃんを送ることになってしまった。本音を言えば今すぐにでも寝たい。
…まあ、夕食買ってくるついでってことで良いか。帰ってから夕食を作る気が起きないし。
「では、邪魔者は退散しますねー」
「あ、リリナ!お前は来ないのかよ!
あと邪魔者ってなんだ!?」
リリナは足早に部屋に戻ってしまった。
仕方ないので俺は1人でじょうちゃんを送る。さっさと帰れば問題無いだろう。
「マナちゃん、今度は私の家に泊まる?」
「そのうちなー…」
「その時は洗いっこしようね!洗ってたの私だけだったから!」
「ああ…わかった。」
それは勘弁してください…と言ったらその笑顔が曇るので言わない。
じょうちゃんは顔立ちが良いので可愛く、笑顔を曇らせると漏れなく強い罪悪感と自責の念に駆られる。
それが嫌なのでつい甘やかしてしまうのだろう。親というのはこんな葛藤をいつも抱えているのだろうか。
その上でしつける親の偉大さには尊敬すら――
―――親か…早く俺の事を言わないとな。
向こうから来る前に覚悟を決めて、自分から行こう。こんな苦労をしてまで育ててくれた親に申し訳な……
「……じょうちゃん。こっちの道はダメだ。」
じょうちゃんの手を掴んで進行を止める。
「え?なんで?」
俺の視線の先には一台の大きな車が止まっている。
運転席にも助手席にも誰もおらず、ハザードランプも点滅している。見た目は路上駐車している無人の車だ。
しかし、その後部座席から視線を感じる。
その目はまっすぐ俺とじょうちゃんを見ている。
前もこんな感じだった。いきなり車から手が伸びてきて―――
車のドアが開く。
「お嬢ちゃん達、この辺の子かな?
もしそうだったらこの地図の場所に案内してくれないかな?」
空いたドアから三人の男が出てきた。
しまった、怪しんで立ち止まったから向こうから来たのか。
「悪いな、その場所は知らない。」
「それは地図を見てから言って欲しいね。」
俺は三人の男から目を離さない。
地図に目を向けた瞬間を狙われる。そんな予感がした。
「俺たちも引っ越してきたばっかりだからな…他を当たってくれ。」
「あ!このお寺行ったことある!」
……おぅ…それは悪手ですぜじょうちゃん。
「そうかそうか、じゃあ案内してくれるかな?さ、車に乗って。」
「悪いけど俺たち急ぎの用事があるから!他を当たってくれ!」
じょうちゃんの手を引いて家に戻る。
「気付かれたぞ!追え!」
やっぱり誘拐が目的だったか。
地図を見せてきた一人はニコニコしていたが、後ろの2人はニヤニヤしていた。明らかに何か企んでいそうな顔だったよ。
「全く、また誘拐か…」
「え?何?どうしたのマナちゃん?」
「分からないのか?俺たちは今、誘拐されそうなんだよ。」
「え…」
信じられない、という顔をしているじょうちゃん。
まさか犯罪の被害者になるとは思わなかったのだろう。
純粋な心はきれいかもしれないが、こういった悪いことには弱く、騙されやすいという欠点もある。
俺も誘拐された時まではそうだった。この街に犯罪者はいないとか本気で思っていた。
しかし、それは違う。犯罪者はどこから現れてもおかしくないのだ。
「…じょうちゃん、ケータイとかは無いか?俺のは家にある。」
まさか見送りまでさせられるとは思ってなかったからな。
まあ、こうしてひとまず誘拐されるのを一度阻止できたので結果的には良かったのだが――
――まだ危機は脱していない。今もまだ誘拐を完全に阻止できたわけではない。それまでの時間を延ばし、逃げられる可能性を作っただけだ。
「キッズケータイなら…」
「よし、それで電話してくれ。
あいつらを撒いたら隠れて電話するぞ。」
曲がり角を駆使しながら逃げているが、まだあの三人を振り切れていない。
あと少しで振り切れそうなのだが…
「……アレだ!あの壁の間に逃げ込むぞ!」
住宅の塀と塀の間を2人ですり抜け、その向こうの道に出る。
「あの二人、どこ行った!」
「遠くには行ってないはずだ!捜せ!」
どうやら見失ったらしい。
「今だ、奴らに見つかる前に早く!」
「わ、分かった…」
じょうちゃんは震える手でケータイを取り出し、操作を始める。
その腕を俺はしっかりと握る。
「大丈夫だ。俺たちはあいつらから逃げられる。
最悪お前だけでも逃がす。だから、安心して」
「ふざけないで!!」
じょうちゃんの大声には聞き慣れたつもりだったが、気迫のこもったそれは俺の口を止めた。
「マナちゃんも一緒に逃げ切るんだから。
私が逃げられても、マナちゃんが一緒じゃなきゃやだ。捕まりに行ってでも一緒に居る。」
「……そうか。
それじゃ、2人で逃げ切らないとな。」
コクリと頷き、ケータイの操作を再開する。
震えは止まっていたが、俺はじょうちゃんの腕を握り続ける。
大丈夫だ、俺が付いてるからと念じながら。
「…もしもし?」
操作を止めてケータイを耳に当てる。
どうやら電話の相手はすぐに出たらしく、じょうちゃんがすぐに応答した。
「助けて、誘拐されそうなの…
場所は―――」
じょうちゃんは自分がわかる範囲で、必死に電話の相手に自分の居場所を伝える。
「うん、分かった。ありがとう…」
しばらくしてじょうちゃんが電話を切る。
「数分で来る、だって。」
「それまでに逃げ切ればいいんだな?」
「うん。お兄ちゃんならあんな奴らなんて事無いよ。」
「お兄ちゃん?
警察じゃないのか?」
「うん。お兄ちゃんが、困ったらすぐに連絡するようにって言ってたから…」
「……本当に大丈夫なんだよな?」
元の俺よりヒョロヒョロの弱そうなあんちゃんに来られても困るのだが…俺だって三対一は無理だ。っていうか多分一人相手でも怪しい。
だって俺も元々喧嘩強いわけじゃないし…インドア派だし…
こういう子供は近所のお兄さんとかお姉さんとかを美化して見る節がある。なんかかっこよく見えるんだよな。
美化で曇った評価じゃなく、色眼鏡無しで大丈夫な相手なら良いが…
「大丈夫だよ、だって―――」
じょうちゃんの口から出た名前を聞き、目を見開いた。
なんでアイツが―――




