閑話2 異世界無双がもたらす歪み
私、トリシュ・カルディアに今日も騒がしい朝が訪れました。
朝食の席。いつもと同じように、いつものメイドさんが屋敷の器物を破壊しています。
今日は赤い花がいけられた花瓶。それが彼女の手から放れ、床の絨毯へと叩きつけられます。ばりーんという大きな音と共に、花瓶はバラバラに砕け散ってしまいました。
「お……お花が……お花がー!」
割れた花瓶の水でびしょびしょになったメイドさん。彼女はスピル・フォティア。一言で言うのならポンコツです。
毎日のようにへまをやらかし、私やもう一人のメイドさんに迷惑をかけているというありさま。どうやら、生き倒れていたところをベリアル卿に救われたようですが、詳しいところは不明ですね。
スピルさんは床に手をつけ、折れてしまった赤い花を介保しています。高そうな花瓶より、一輪の花の方が大事ということですか。めんど……いえ、心優しい人ですね。
そんな彼女の横から、もう一人のメイドさんが割り込んできます。彼女は事務的な態度をとりつつ、花瓶の破片を掃き集めていました。
「トリシュさま、すぐに片付けます。破片が散らばっていますので、近づかないようお願いします」
箒で素早く破片を回収し、すぐに床を布によって拭いていきます。彼女はゲルダ・フシノー。ちょっと無愛想ですが優秀なメイドさんです。
スピルさんとゲルダさん。ベリアル卿に仕えているメイドさんはこの二人。召使が二人しかいないのは、ベリアル卿自身が優秀だからでしょう。お金なら腐るほどありますからね。
やがて、清掃を終えたゲルダさんは、スピルさんから赤い花を奪います。そして、それを焼却しようと暖炉の方へと歩いていきました。
すぐにスピルさんが気づきます。そして、泣きつくように彼女の腕にしがみつきました。
「す……捨てないでゲルダちゃん! まだ生きてるよ!」
「観賞用としては役に立ちません。破棄したほうが良いでしょう」
たかだか一輪の花になにを真剣になっているのでしょうか。ですがまあ、その優しさに付き合ってみるのも良いかもしれませんね。
私は朝食の席を立ち、ゲルダさんの元へと歩きます。そして、折れた一輪の花を彼女からひょいと奪いました。
「ちょっと見せてください……どうもなってないですよ。見間違いじゃないですか?」
少し見て、すぐにスピルさんに手渡します。その赤い花は全く折れていません。瓶に刺さっていたときと変わらず、紛れもなく観賞用として機能する花でした。
スピルさんは混乱します。確かに彼女が見たときは折れていましたから、当然そうなるでしょう。
「あれ? 治ってる……治ってるよゲルダちゃん!」
治癒魔法は良好。どうやら順調に進化してるみたいです。
長ったらしい詠唱も、魔力反応による光もなし。ほぼノータイムで完全な治癒に成功しました。
切り落とされた腕も、視力を失った眼球も、今の私なら治癒できそうな気がします。これも異世界転生者たる私、聖女の素質を持つ私だからこそ成し得る技ですね。
癒の異世界転生者、私は自身をそう思っています。
この力があれば一人で生きていくことは容易ですが……はたして、それをベリアル卿が許してくれるでしょうか……?
今はまだ様子見です。まだ、彼の底が知れていませんからね。
朝食を終えた私は日課のラジオ体操を行います。
日課といっても、この世界に来てからですね。あまりにもやることがないので、体だけでも動かそうと思った結果こうなりました。
メイドのスピルさんとゲルダさんは変な目で見ていましたね。まあ、私の世界を知らない人がこれを見ても何をやっているか分からないでしょう。
この体操は私の国に伝わる由緒正しき……
「あー、実におかしなことです」
体操を続ける私の前に突如ベリアル卿が現れます。
白いローブをまとった男。彼は薄ら笑いをしながら、私の動きを凝視しました。
「その動き、全身の筋肉をアプローチし、運動前のウォーミングアップとして高い効力を持っていると見受けられます。幾多もの知恵が合わさり、歴史と共に研究が重ねられた賜物だと言えるでしょう」
彼はわざとらしく頭を抱え、自身が悩んでいるという事をアピールします。
「ですが……ですがおかしい。それをなぜ貴方が知り得ている? この世界、この歴史上にその知識は存在しない。その動きはどこから生まれた?」
やがて、人差し指を突出して彼は言いました。
「ここにそれがあるのは『ありえない』」
瞬間、ぞっと背筋が凍りつきます。
これは完全に油断をしていましたね。現実世界で得た知識、それを考えなしに露見したのは不味かったのです。
ベリアル卿はラジオ体操の動きを見ただけで、その完成度を即座に見抜きました。歴史の中で研究に研究を重ねた賜物が、この世界にあるはずがないのです。
ですが、それ以前に彼は全てを知っていました。まるで、ここに私たちが訪れるのを待っていたかのように……
「やはり、貴方を引き取ったのは正しかった。疑惑は確信に変わりましたよ。アークエンジェルより先手を取れたのは実に好ましい。あれは警戒するに越したことはないですから」
「な……何を言っているんですか! 貴方は一体……」
常に薄ら笑いを浮かべる美しき男。
彼は丁寧に頭を下げ、上目使いで私を見上げました。
「改めて、名乗らせていただきましょう。私は堕天使ベリアル、地獄の君主を務めさせてもらっています」
そう、彼は人ではなかったのです。思えば、その名前は聞いたことがありました。
悪魔ベリアル。あまり覚えていませんが、神話に詳しくない私が覚えているほどメジャーな悪魔だと分かります。
私の世界のベリアルとこの世界のベリアル卿との関係性は分かりません。ですが、彼は別世界の存在を認知しているので、同一の存在だという可能性が浮上します。
もしそうなら……それはあまりにも強大な存在。
そう、異世界転生者である私以上の……
昔、ソドムとゴモラという街がありました。
二つの街は七つの大罪など当たり前。甚だしい性の乱れは偉大なる主の怒りに触れます。
彼が下した判断は裁きによる滅び。二つの街は火の雨によって何もかも焼き尽くされてしまいました。それが聖書の内容です。
「あれは素晴らしい悲劇だった。実に人間らしい最後だったと言えましょう」
夕暮れ時、私はベリアル卿と共に街を歩きます。
ここ、フラウラの街はベリアル卿の拠点。彼はここの領主であり、また国の大臣でもあります。
そんな権力者が人ならざる悪魔だなんて……私は動揺しつつも彼と会話を合わせました。それが、今できる最善だと思ったからです。
「貴方が仕組んだ崩壊ですか……?」
「とんでもない。私は住民に知識を与えただけですよ。それを悪用し、度を超えた行為に及んだのは他ならぬ彼らではありませんか。私に罪などあるはずもない」
街が堕落した切っ掛けはベリアル卿によるもの。しかし、実際に罪を犯したのは私たち人間。
この理屈こそがベリアル卿が罪を犯さない悪人たる所以。彼を裁きから守る盾でした。
「何もかも、貴女がた人の招いた結果ですよ。例えばとある獣人の村。そこでは精霊信仰を行っており、幼気な少女を生贄にするという文化がありました。なので、私は国王にこう伝えたのです『とある獣人の村で生贄が行われている。もしや邪神教ではないか? 貴方にも子供がいるでしょう? 救いたいとは思いませんか?』と……」
彼はゾクゾクとした表情をし、嬉々としてその悲劇を語っていきます。
「訪れたのは実に人らしい『戦争』という結果でした。人間は生贄にされる少女を救うため、獣人は信仰という文化を守るため。正義のために獣人を殺せ、正義のために人間を殺せ。正義、正義、正義! あー実に人というものは面白い! 互いが正当性を主張し、人種や価値観の違いを認めない! 血で血を洗い、絶望を作り出しながらも歴史は進化する!」
最近、この近くで行われた小さな侵略戦争。多くの獣人が虐殺され、囚われた者たちは奴隷として違法に取引されたと聞きます。
ここ、フラウカの街でも獣人の子供は取引対象。実際、裏通りでは今でも違法に売買され、国はそれを黙認しているというありさまでした。
ベリアル卿はそんな悲劇を好みます。私には何一つ理解できません。
「なぜ……なぜ無益な争いを……!」
「なぜ? それこそなぜですよ。縄張りをめぐって争うことなど、自然界ではごく当たり前のことでしょう? 平和や慈悲を求める貴方がた人こそ、世の摂理に逆らう異端者ではありませんか? まあ、それを含めて私は人が好きなのですが……」
ベリアル卿は人に魅かれています。
彼は何の悪事も働いていない。ただ人々に真実を与えているだけで、それを歪んでとらえたのは私たち人の所業。そんな彼を誰が裁けますか? 裁く権利がありますか?
誰にも何もできない。だからこそ、彼は主という強大な存在からも見逃されている。好き放題に悲劇と絶望を振りまいていく……
「妖精の鱗粉で少量の絵具が作れると教えれば、妖精を虐殺して絵具を貪る。ある女神が主なる存在を憎んでいると教えれば、その信者から金品を略奪する。悪魔である私から見ても、人はどこまで残虐なのかと思いますよ」
切っ掛けを作ったのは紛れもなく彼。ですが、まるで他人事のように振舞っています。
まさに天の上から見下す神。いえ……神ではなく悪魔でしたか。なんにしても恐るべき存在です。
この世の者とは思えないほど美しい容姿と、この世の者とは思えないほど醜い心。そんな彼が目につけたのは私たち異世界転生者でした。
「異世界転生者……貴方がたが最強であればあるほど、私としては都合がいい。どこまでも最強な存在があろうと、世界がそれに耐えきれるかは別問題。その意味を分かりますか?」
赤髪の男は薄ら笑いをします。これから起こる混沌に胸を躍らせるように……
「サイは投げられました。これより、この世界は異世界無双によって崩壊する」
勝手に崩壊させればいいじゃないですか……
私は私の好きにこの世界で生きます。そんなこと、ここで明かされても知りません。
貴方の言葉を受けて堕落した人の罪は変わらないでしょう。自業自得、救う価値もない……
「私には関係ありません。好きにやればどうですか?」
「なるほど……やはり貴方は、どこまでも異世界転生者だ……」
人通りの激しいギルド前で、彼はそう返しました。
この世界には、どうやら大きな悪意が渦巻いているようです。
ベリアル郷はキーとなるキャラクターです。
前作は敵には敵の意思があるというコンセプトだったので、今作の敵はゲス外道の極みにしたいと思っていました。
あらゆる悲劇の根源に彼がいると思ってほしいです。