閑話9 今、行きます
ベリアル卿がキトロンの街に向かって数日、フラウラの屋敷は今日も平和でした。
ポンコツメイドのスピルさんが物を壊し、有能メイドのゲルダさんがそれを処理します。私は大臣の仕事を手伝いつつ、唯々時間を潰すばかりでした。
はあー、何をしているのでしょうか……やはり、キトロンの街に行かなくては行動が出来ません。
現状、ベリアル卿に認識されていないので好き勝手に動けます。チャンスは今しかありませんでした。
「よし、行きま……」
「トリシュちゃーん! お茶が入ったよー!」
私が覚悟したのと同時に、メイドのスピルさんがお茶に誘います。
まあ、出発はいつでもできますし、まずはおやつを食べてから考えましょう。どうせノープランですしね。
これは心を落ち着かせるための儀式です。断じて、食い意地が張っているわけではありません。もう一度言いますが、食い意地が張っているわけではありませんから!
メイドのスピルさんとゲルダさん。二人とテーブルを囲み、客間にてお茶会を開きます。
この世界の紅茶は厳密には紅茶ではありません。ハーブティーと言えば正しいでしょうか。異世界産の植物を乾燥させ、それにお湯を加えてお茶にしていました。
また、砂糖の流通が少ないので、お菓子の味付けは木の実や蜂蜜が使われています。そのためクッキーのような脂肪分の多いお菓子は作れず、ガレットのようなシンプルなものが主でした。
ですが、今私が食べているお菓子は、パイ生地の中にクリームがたっぷり入っています。美味しい……外で食べるプロが作った物より美味しい!
これは最先端を行っている料理技術ですね。別世界から来た私もこれには驚きます。
「ゲルダさんはお菓子作りが上手ですね。このお菓子、サクサクしてとても美味しいです。中に入ってるのはホイップクリームでしょうか?」
「いえ、アーモンドクリームです。乳製品への加工は大変難しく、その道のプロでしか行えません。あくまでも、私が行っているのは家庭料理の域ですので」
確かに、アーモンドを砕いてペースト状にしたクリームならば、一人のメイドにも作れるレベルでしょう。しかし、この世界で調理技術を知る方法は少なく、ゲルダさんの優秀さが伺えます。
これは、大臣からのルートで数多くの知識を身に付けていますね。流石はファウスト家に務めるメイドさん、スピルさんとは出来が違いました。
後、彼女はアーモンドクリームと言っていますが、実際は全然アーモンドではない謎の種が材料。小麦も小麦に似た何かで、出来た小麦粉も微妙に違います。
『異世界言語理解』のスキルが、似た食材に当てはめているようですね。翻訳基準はかなりガバガバ。以前、全くセロリではない謎の植物をセロリと言い切る事件がありました。
女神さま、びっくりするので無理な翻訳はやめてほしいものです。いつか、会話の擦れ違いが発生しそうでした。
私はゲルダさんの作ったお菓子を堪能し、お茶で一息つきます。
そんな時でした。隣に座っていたスピルさんが体を寄せ、私の目の前に顔を近づけます。そして、舌を出し、こちらの頬をぺろりとなめました。
「ひゃ!? 何をするんですか……!」
「だって、クリームが付いてたから」
スピルさんは何かヤバいです。完全にそっちのけがあります。
露骨に同じベッドで寝ようとして来たり、女性との会話の時は顔が近かったり……
明るくて元気なのは良いですが、あまり近づかない方が良いでしょう。私にそっちのけはありませんから……
さて、今日も一日が終わりました。
ベリアル卿が残してくれた仕事は片づけましたし、明日から暇になってしまいそうです。
そうでした。ゲルダさんに異世界料理を教えてもらうと約束していましたね。ベリアル卿におんぶ抱っこは絶対に嫌ですし、掃除や洗濯も手伝いましょう。
大丈夫、十分に充実しています。
では、明日に備えておやすみなさい……
って……
一日が終わってしまったではないですか!
キトロンの街に行くんじゃなかったんですか!
ベッドから飛び起き、私は正気に戻りました。どうにも、幸せな生活に慣れてしまっています。これはいけない流れですよ。
ま……まあ、焦る必要はありませんよね。明日、荷物を整えてキトロンに旅立てば……
い……いえいえ! かれこれこんな事を三日は続けています! 何かおかしくはないですか!
「ベリアル卿の魔法でしょうか……? 屋敷に閉じ込められてる……?」
街から出ようとすると、幸せな毎日が訪れてそれを止めます。それは私の弱さ……? 単なる心の問題……?
分かりませんが、どうにも嫌な予感がして仕方ありません。これは無理にでも突き進んだ方が良さそうですね。
もう、外は真っ暗。当然馬車は出ていませんし、徒歩で移動することも不可能でしょう。
ですが、屋敷からは出ます。ここはベリアル卿の本拠地であり、ここにいる限りは手のひらの上。そう思えて仕方ありませんでした。
すぐに着替え、部屋から飛び出します。
ひらひらのドレスのような服しかありませんが仕方ありません。それは、今までのほほんとお嬢様を気取っていた私が原因なんですから。
ゲルダさんたちを起こさないように、忍び足で一階へと降ります。特に何も起きず、ベリアル卿の魔法を感じることもありません。出入り口はすぐ傍でした。
私はそのドアノブに手をかけ、開けようと回します。その時でした……
「あれ……何だか眠く……」
突如、頭がぐらりと震えます。同時に、耐え難い睡魔がその身に襲いました。
やはり、何らかの魔法……? ですが、残念ですね。私は『癒』の異世界転生者、傷だけではなく自身の身に起きた異常も治癒します!
癒しの光を自身に纏わせ、睡魔は完全になくなりました。とにかく、屋敷から出ましょう。ここは何かヤバい……
そう思った私は再びドアノブに手をかけます。しかし、敵はそれを許しません。私が手をかけたのと同時に、ドアは灼熱の炎を噴き上げたのです。
「これは……ベリアル卿の炎……?」
いえ、違います……ベリアル卿はこんな横暴な手段には出ません。
私は彼が大嫌いですし、全く信用もしていません。ですが、その悪徳に対するこだわりと独自の美徳感情はよく知っています。これは、明らかにベリアル卿の意思に反するものでした。
では、誰がなんで……
そう思ったとき、私の耳に聞きなれた声が入りました。
「トリシュちゃん、屋敷の外は危険だから出ちゃダメだよ。ベリアルさまが帰って来るまで待機になってるから……」
振り返るとそこにいたのは、赤い服を着たメイドのスピルさん。大きな杖を握り、その先端に真っ赤な炎を灯していました。
分かっていましたが、やはり彼女はベリアル卿側。そうですよね……反抗をすれば、当然メイド二人とも敵対することになってしまいます。
スピルさんは不敵な笑みを浮かべつつ、マッチのような杖を一振りしました。すると、周囲の光景は変わり、温かい暖炉や豪華な食事、クリスマスツリーが現れました。
これは幻覚ですか……爆炎なんて大嘘、彼女の本気は幻術士だったのです。
「揺らめく幻惑の炎は、みんなを幸せに誘うんだよ。トリシュちゃん、ベリアルさまの邪魔をしちゃダメだよ。悪い事はしないで、私たちとずっと一緒に暮らそ?」
「悪い事……どっちが……」
スピルさんは何も知らないんです。話したところで、盲信する貴方は信じてくれないでしょう。
戦うしかない……戦いたくないけど戦うしかないんです……!
これは、今まで平和に逃げていた私への罰。哀しみを……涙を堪えて向き合いましょう。
身体全体に強化魔法を発動しました。パンチで倒す。パンチで倒す。パンチで倒す。
平和な生活を……ここで打ち砕く!
私はスピルさんの元へと走ります。すると、彼女は再び杖を一振りし、程度の低い炎魔法を発動しました。
あんなナメプ魔法。真正面から受けてもすぐに治癒できます。無視して突っ込んでやりましょう。
全ては想定内。ですが、この場面で思わぬ事態が訪れました。
突如、何者かが私に飛びつき、炎攻撃を回避させたのです。
いえ、避ける必要ないんですが……それでも、謎の乱入者は「危ないところだった」という表情で私に言います。
「よう、久しぶりだな」
「……誰?」
「冒険者のアリーだよ! 城壁の外で会っただろ! ほら、テトラを救出した後に!」
ああ、ターリア姫のお守りをしてた人ですか。え? 何でここにいるんですか?
あまりに急な展開に混乱します。ターバンを巻いた褐色肌の少年、彼は私の手を引きスピルさんから逃げ出しました。
いえ、この屋敷の出入り口は一つ、それは彼女の魔法によって燃えています。いくら屋敷内を逃げ回ったって、いずれ捕まってしまいますよ。
ですが、アリーさんは真剣な表情。そのまま、出入り口とは正反対の壁に向かって突っ込みます。
「あ……アリーさん! 壁にぶつか……」
「開けっ!」
なんと、壁をすり抜けて屋敷の外へと脱出成功してしまいました。ああ、彼はそういう魔法を使うのですね。説明が欲しかったものです。
これで、どうやって屋敷に侵入したかは分かりました。ですが、なぜこの場面で助けに入ったのでしょう? いったい、何が目的で?
庭を駆けつつ、私は聞きます。どうしても繋がりが見えてきません。
「それで、なぜ私を助けたのですか?」
「怒るなよ。俺はモーノの指示でお前を監視していたんだ。で、スノウの奴が嫌な魔力を感じ、今回の計画に踏み切った。今から合流する」
一番の転生者……仲間に私を監視させてましたか。
それで、ピンチになったら颯爽と登場? くっ……何という気配りですか! 私が屋敷に引き籠って、ベリアル卿と睨めっこしている間にこんな……
少しムカつく……どうにも腹の虫が収まらないので適当に罵倒します。
「では、私のプライベートを……どエロ……! ストーカー……!」
「待て……! 居場所を察知してたぐらいだ! 俺、彼女いるし! やましい気持ちなんてないからな!」
まあ、良いでしょう。これでスピルさんと戦わずに済みそうですね。
ですが、物事はそう上手くは行きませんでした。なんと、スピルさんは杖にまたがり、火を噴射させて私たちの前に回り込んだのです。
結局、戦うんですか……彼女は真剣な瞳で私を見つめ、必死に呼びかけます。
「協力者がいたんだ……お願いトリシュちゃん! どこにもいかないで! ベリアルさまの邪魔をしないで!」
「嫌、です!」
転生者の中で一人、私だけボケボケ生きるなんて恥ですよ。特に、私はこの国の黒幕を知っています。なおさら無視なんて出来ません!
見つめ合う二人、どちらも引くに引けないところまで来ています。ですがそんな時、何者かがスピルさんの肩を叩きました。
青いメイド服を着たゲルダさん。彼女がスピルさんを宥めたのです。
「もう良いでしょうスピルさん。いつも不真面目な貴方が、こんな時だけ真面目でどうするのですか」
「でも……でもベリアルさまが……」
「ベリアルさまは暴力での解決を望みません。それどころか、トリシュさんの到着を待っているとも考えられます」
まあ、そうですよね。ベリアル卿はそういう人です。
今回はおバカなのに真面目になってしまったスピルさんの暴走ですか。彼女らしいと言えばらしいですが、二度とこんなことになるのは御免ですね。
ゲルダさんの言葉を受け、スピルさんは深く頭を下げます。そして、二人のメイドは仲良く屋敷へと戻っていきました。
はあ……一応、今回が初戦闘ですかね……
何とか切り抜けましたが、どうやら私は戦うのは好きではないようでした。
テトラ「開けゴマ! 何でゴマなんでしょう?」
アリー「高級だったからとか……実際不明だよ。意味はないのかもしれないな」
スピルとゲルダはクリスマスコンビです。