7. 王城へ
国境の砦を発ってより、馬車に揺られること半月余り。最後の休憩と、少し小高い丘の上から望む初めてのイスファンの王城に、リディアンリーネは目を見開いて感嘆の吐息をついた。
湖上に幻想的な姿を見せる白亜の城。
白い城壁の内側には、幾重にも複雑に重なる宮殿や天を衝く尖塔が優美にひしめき、美しい青色の屋根とのコントラストが、見る者の目を楽しませる。
向こう岸さえ霞みそうな程大きな湖は滔々と水を湛え、その湖面に悠々と聳える宮殿の姿を映していた。岸に広がる城下町からは橋は掛かっておらず、切り立った崖の方へと石造りの巨大なアーチ形の橋が架かっていた。
「きれい…」
「街の者は『水の王城』とか『青き宝石』等と呼んでおります」
ぽつりと漏らすリディアンリーネの後ろから声を掛けたのは、いつの間にかその背後に控えていたリュスタークの従者、アークだった。
「正しく『宝石』の名に相応しい宮殿ですね。それにとても涼しげな…」
「イスファンは気候の暑い国ではありますが、城が湖上にあるおかげで涼しくお過ごしいただけますよ」
「ラティスハルクは過ごし難いほど暑くはならないので、それはとてもありがたいわ」
「それでも暑いようでしたら、地階に広い水浴場がございますので、そちらで泳いで頂くこともできます」
「水浴場?」
「城の温度調節も兼ねているのですが、イスファンにはこの湖の他に、何本か大きな河川がございまして、民は皆、夏になると水の中を魚のように泳いで涼をとるのです。お国では泳いだりはなさらないのですか?」
アークの問いにリディアンリーネは軽く首を振った。
「港町の方は存じませんけど 、王都や領地ではその様な姿はなかったように思うわ。精々舟遊びくらいじゃないかしら?そもそも水に入りたいと思うほど暑い日は稀なので」
「左様でございましたか」
首を傾げるアークにリディアンリーネはクスリと笑みを向ける。
「ラティスハルクの北の方では水に入って遊ぶより、水の上を滑って遊ぶのです」
「滑って!?」
「北の領地では寒くなると湖や河川が凍ってしまい、わざわざ橋へ迂回することなく、その上を馬車や人が渡るのです。氷の上はツルツル滑るので歩き方にコツがいりますが、子供達は上手に靴底を滑らせて遊んでいます」
「氷…我が国では貴重品です。それが渡れるほどに湖上いっぱいに…しかもその上で子供が遊ぶなど……」
溢れんばかりに見開かれていた両目を更に見開いてアークは感嘆の溜息を吐いた。
「羨ましい、夢のような風景ですね。子供達に踏まれる前に是非、我が盃の中に欲しいものです。暑い夏に冷たいエール!正に王侯貴族の贅沢です」
片手を胸に当てた芝居がかった仕草にリディアンリーネはくすくす笑う。
「父にイスファンまで送れるか尋ねてみますね。上手く手に入ればお裾分けいたしましょう」
「是非!!」
飛び上がらんばかりに応えを返すアークの肩を、がっしと後ろから掴むものがあった。
リディアンリーネは慌ててそちらへ淑女の礼をとる。
「何をしているのだ。姫君に礼を失してないだろうな」
「我が王城の説明をしていただけです、主」
しれっと答えるアークに胡乱な視線を向け、
「そろそろ出発します。馬車へどうぞ」
エスコートのための手を差し出した。
「長い間ご不便だったでしょう。後2時間程で着きますので、顔合わせの後はしばらくゆっくりなさってください。夜は内輪だけで会食の予定です。お疲れでなければ、明日は城内を案内させてください」
馬車に向かいながら今後の予定を述べ、柔らかな笑みを向けるリュスタークへ小さく笑みを返しながらリディアンリーネは頷いた。
「ありがとう存じます。先程拝見しましたお城はとても幻想的で見惚れてしまいました。明日城内を案内していただけるのが、とても楽しみです」
「姫君にお入りいただくのは私の居室のあるのと同じ南棟の6階になります」
「6階…」
「高い階は怖いですか?」
「いえ、分かりません…故国では大体3階程ですので」
「部屋からは空中庭園に出ることができますし、部屋の中にいて怖い思いをされることはないと思いますが、あまり怖いようでしたら仰って下さい。下の階に移動できるよう手配します」
「お心遣い感謝いたします」
「怖くさえなければ、眺めの良い階ですよ。空中庭園にある東屋から見る景色はきっと故国を離れた姫君の心を慰めてくれるでしょう」
「…リディと…」
「え?」
「…姫君ではなく、リディとお呼びください」
―――私、リン。君じゃない
フラッシュバックした声に軽く首を振る。
「…ええ、リディ。それでは私のことはリュークと」
「はい、リューク様」
豪奢な部屋で5人の男が優雅に紅茶を飲んでいた。
先程イスファン国初、ラティスハルク国公爵令嬢の入城を迎え入れ、肩の荷を降ろした面々である。一人はロベルタ・ラ・クレメンテス。イスファン国現国王である彼は、定着しきっていた渋面を作るのを失敗し、何やら口元がムズムズと動いている。もう一人は穏やかな風貌のエドヴァルド・ラ・クレメンテス。次期国王であり、リュスタークの兄である彼は嬉しそうな顔を隠そうともしていない。もう一人は同じくリュスタークの兄であるシグルド・ラ・クレメンテス。こちらは書類を不可解そうな渋面で眺めていた。残る満面の笑みの二人は国王の弟であり外務大臣であるアレクシス・ヴェサ・タハティと、宰相であり、ロスガルド家の姫君を推進した筆頭でもあるマティアス・ヨニ・ヴァルキッシュ。
「思ったより、早いお着きでしたな?タハティ公爵」
「我々も驚いたのだが、行きと同じ速度で帰ってこれたのだよ、ヴァルキッシュ卿」
「ざっとだが、当初計上していた予算と変わらぬのは?叔父上」
パサリと机に書類を置き紅茶をとるシグルドに公爵はニヤリと笑って見せた。
「何もなかったのでな」
「何も?」
「何も…我が儘休憩なし、食事や寝具、部屋の取り換えもなし。ああ、一つだけ。リュスタークから報告があるかもしれぬが、ラティスハルクからついてきた騎士たちはおそらく殆どがロスガルド公爵家の私兵だ」
「根拠は?」
「道中起こった揉め事の仲裁をエルンハルト殿だけでなく、リディアンリーネ嬢もしていたのだが、何の問題もなく収まっていた。おかげで道中何事もなく恙無く進めた。公爵が娘の道中に配慮して私兵をねじ込んだのか、国の騎士団に公爵の息のかかったものが多いのかは分からないがな」
「後者だとありがたいな」
タハティ公爵の考察にエドヴァルド王太子が頷く。
「人柄は?リュスタークと合いそうか?」
「陛下、それは今の段階では如何とも。見た目通り大人しく控えめな少女です。…今の所は」
「今の所?…何だその含みのある言いようは」
「本当に大人しい少女は騎士の揉め事の仲裁等出来ますまいし、兄君から聞いた幼少時代は少し元気の良い少女だったようです。今はわかりませんが…」
「結構結構」
上機嫌で受けるのはマティアス・ヨニ・ヴァルキッシュ。一人だけ紅茶でなく酒でも飲んでいるかのような赤ら顔で頷いていた。
「わが国の女性は気性の激しいのが多いですからな。大人しいばかりではお辛いでしょう」
「あれだけ美しくて予算に優しい女性など、何か欠点がないと罠でもありそうで…」
「シグルド王子の貧乏性にも困ったものですな。美しくて素晴らしい女性、大変結構ではないですか」
「まぁ、これから1年、我々は見守るばかりです」