40.侍従の災難
ふと目覚めれば、薄暗い室内にぼんやりと見知らぬ天井が見える。
―――どこだ、ここは…
重い身体を動かそうとして、脇腹に軽い圧迫感と左手に温かい何かを感じて視線をやれば、ぼんやりとした視界に白い塊が見えた。
―――…な…に……
脳がそれを認識するのに数秒かかる。
―――……リディ?!
がばっと勢いよく起き上がろうとして止まる。そっと握られた手を離すと、慎重に脇腹にある頭をずらし、起こさないよう気をつけてゆっくりと身体を起こした。
辺りを見回せば、薄暗くはあるが王太子執務室で間違いないようだ。
取り敢えず床に座り込んだリディアンリーネを抱き上げると、先程まで自身が寝ていたソファへと横たえる。
「…ん…ぅ…」
呻き声をあげるも、深く眠っている様子のリディアンリーネに起きる気配はなかった。
―――何故ここに…?
聞きたいことはあったが、聞ける相手がここにはいないようだった。
ぐるりと室内を見回すと、再びソファに眠るリディアンリーネに視線を落とす。
会いたいと思いながらも会えなかった少女が、手を伸ばせば触れられる距離にいる。
食い入るように見つめるその視線の下で、リディアンリーネは静かに寝息を立てていた。
目尻に残る跡は涙の跡か。
こみ上げる愛しさに、リュスタークは思わずそこへと口付けを落としていた。
―――心配を掛けていたみたいだね…
唇を離すとそっとその髪を撫でる。愛おしげに見つめてから、リュスタークは扉口へと向かった。
―――扉の外には警護の近衛がいるはずだ。兄上がどこにいるか…
聞こう、と思うその目の前で、扉が小さな音ともに開いた。
「あれ?主、お目覚めで?」
構えるリュスタークに、小声で話しかけたのはアークだった。
「お前か、アーク」
ほっとした様子で構えを解くと、リュスタークは軽く首を振った。
「休めと言っただろう」
「休んでたのを呼び出されたんですよ。主が倒れたからリディアンリーネ様に伝えるようにと」
「倒れた?」
リュスタークは記憶を辿りながら眉根を寄せた。
「慌てて来てみれば気持ちよさそうに寝ておられましたよ。大変だったのはリディアンリーネ様で。寝てるだけだと伝えても信じてもらえず、眼が覚めるまで側についておられると言われるのを説得できずに、この有様です」
「なる程…」
兄上の人の悪い冗談かと呟くのへアークは肩をすくめて見せる。
「で?どうされます?」
「どうとは?」
「エドヴァルド殿下は、朝まで執務室でも奥の仮眠室でも、自由に使ってくれて構わないと仰せでしたが、一応主の仮眠室も整えて参りました」
「助かる」
「お戻りで?」
「ああ」
答えながらソファへと近付くとリディアンリーネを抱き上げた。
「先導を頼む」
「はい」
先に立つアークの後を歩きながら、ふと思いついたようにリュスタークは呟く。
「アーク…結婚式の事は兄上達から聞いたか?」
「いえ?」
「ムジークのお陰で早まりそうだ…」
「それはそれは…よろしゅうございました。と言っても?」
「良いわけあるか」
「では、ご愁傷様で」
腹立たしげなリュスタークの様子にアークは小さく肩を竦めた。
たどり着いた自分の仮眠室に、リュスタークはそっとリディアンリーネを横たえると、シーツをかけて部屋を出る。
執務室では既にアークが紅茶の準備をして待っていた。
ソファに背を預けると、紅茶を出すアークにも座るよう促す。
「間に合うと思うか?」
「は?」
突然の言葉に顔を上げれば、置きかけた紅茶がかちゃりと音を立てた。
「ドレスだよ、ウェディングドレス。もうデザインは選んだんだったな?」
「私が領地に戻る前に決まったと記憶していますが…生地が決まったかどうかまでは…」
答えながらアークは記憶を辿る。生地屋の手配もしたから時期的にはもう選び終わっているはずだが、ここ一月王都にいなかったアークに、分かろうはずもなかった。
「私もこの一月部屋に戻る暇もなかったんだ…」
「それはまた…」
トニは一体何をしていたんだとぶつぶつ言いながら眉根を寄せるアークの前で、リュスタークは繊細なドレスのデザインをを思い浮かべていた。
「兄上は年内にと言っているが、元は春先の予定だったんだ。間に合わず有り合わせのドレスで式など、リディに上げさせたくない…」
「おや?」
主の言葉に反応し、真っ直ぐに視線を向けるアークに、リュスタークは訝しげな視線を返す。
「なんだ。女性には式のドレスは夢なのだろう?」
「おやおや?」
アークの口許は可笑しそうに緩み、その双眸には揶揄うような光が浮かんでいた。
「なんなんだ」
「おやおやおや??」
完全に揶揄う気満々のアークに、リュスタークは不満気な様子で言葉を投げる。
「言いたいことをはっきり言ったらどうなんだ」
「式が早まるのがお嫌なのでは?」
「嫌だと言ったろう」
「リディアンリーネ様のドレスが間に合わないかもしれないから?」
「4〜5カ月も早まるんだ。いくらなんでも無理じゃないのか?」
「主。それを嫌とは言いません」
「嫌だろう」
依怙地な主を呆れたように見やり促せば
「分かりました。ドレスはなんとかさせます。で?」
「そうか…助かる」
求めた返事ではなかったが、明らかにほっとした様子の主。
「いや、そうじゃないですよね?」
「ラティスハルクは兄上が説得してくれるそうだ」
「え〜と?リディアンリーネ様は?」
「私が説得する事になるな」
「主はそれでよろしいので?」
「それは…まぁ、もう少し時間は欲しかったが…」
「…結局?」
畳み掛けるアークからそっと視線をそらすと、眉間にしわを寄せて片手で口元を覆った。
「あ〜…はい。分かりました」
答えぬリュスタークに呆れすら含んだ声でアークは言う。
「それ、隠せてませんからね。眉間にしわを寄せて目尻を下げるとか、どんだけ器用なんですか…」
「うるさい…まだ自覚したばかりで感情の揺れが制御できないんだよ…考える時間もなかったしな……」
「うわ…どこのお子様ですか」
「……お前……遠慮がないにも程があるだろう」
嫌そうな顔で睨みつけても、一向に堪えた風もない。
「主、それ、全く怖くないですからね」
「…シュルヴェステル殿にも言われたな…」
「…でしょうね……で?主の気持ちは伝えたので?」
「いや…まだ自覚したばかりだぞ?」
「いつです?」
「……一月前…?」
「それ、ばかりとは言いませんからね」
「仕方ないだろう。リディの事を考える暇どころか、寝る暇も無い程だったんだ。取り敢えず捕縛まで漕ぎ着けないことには、何が起こるやら…」
この一月ほどを思い起こし、うんざりとした顔で首を振る。
「兵を動かす準備の方は?」
「今しているところだが…国境はどうだ?」
「防備は固めてあります。間諜も放ち、進軍の気配がすれば、すぐに知らせがくるようにしてあります」
「北の軍を取り敢えず半分西に動かす予定だが…メッツァラ伯は何と?」
「当面はこのままでと。動いて警戒させてもいけませんし、準備だけお願いしたいと」
「分かった。…西とはここ150年程何事もなかったんだがな」
溜め息混じりに言うリュスタークに、アークは頷く。
「杞憂で終わると良いですね」
「そうだな…」
「その為にも…主」
「ん?」
「きちんとお気持ちを、リディアンリーネ様に伝えてくださいね」
「ぐふっ!」
盛大に咳込んだリュスタークに、アークは冷静に手巾を渡す。
「げほっ……いっ…一体何の関係が…」
「ラティスハルクとの関係が強固であれば、ムジークとて迂闊に手が出せないでしょう」
「それはそうだが……結婚は…するだろう…」
「まさか、言わないおつもりですか」
「いや、まぁ…それは…また、追々…」
歯切れの悪い返事にアークは顔をしかめる。
「主?」
「目に見えないライバルがいるんだ。そうすぐに言えるわけ無いだろう」
「ライバル…」
リュスタークが倒れたと聞き、真っ青になって駆けつけたリディアンリーネを見ているアークは、訝しげに首を傾げた。
「そいつの為に厨房にまで入る相手だぞ?そう簡単にこちらを向くわけ無いだろう。長期戦で何とかするからそう急かすな…」
「長期戦ねぇ」
「遠乗りの後のリディを覚えているだろう…あの後きちんと話せても無いんだ。まずはそこからだろう」
「う〜ん」
どう見ても慎重が過ぎる気のするアークだったが、こればかりは外野の手出しできることではない。できるのはせいぜい手助けか。
「まあ、ひと段落ついた所らしいですし、取り敢えず明日時間を作りますから、息抜きに出かけて来られてはいかがですか?」
寝てる方が良いですか?と聞くアークにリュスタークは喜色を露わにした。
「良いのか?」
「殿下方から急ぎはないと聞いてますし、何とかしますよ」
「頼んだ。……いや、待てよ…今日の捕り物で書類が溜まってるし、明日からは尋問も…」
「主」
「やはりもうひと段落ついた後の方が憂なく…」
「働き過ぎですから。トニではペース配分の調整がうまくいかなかったようで。申し訳ありません」
「だが、アークも帰ったばかりだろう」
「私は向こうで休めましたし、大丈夫です」
「では任せる」
「はい」
畏るアークの前にずいと書類の束が差し出される。
「ん?」
「これは第10騎士団の書類。後、捕縛関係の書類の証拠関係と経緯書、ムジーク内部の報告書。アークが持ってきたのとは別だから目を通しておいてくれ。それから…」
積み上げられていく書類はそろそろ30センチを超える。
「…主……」
「明日はゆっくりで良いからな」
夜中に見るには爽やかすぎる笑顔だった。
ちらりと主の机を見やれば、それ以上の書類が積んである。
「はい…」
思ったよりも早く日常が戻ってきたようだ。
諦めの溜め息をつきながら、アークは書類を持って補佐室へと下がっていった。




