3.婚約式
朝(side:リュスターク)
「殿下!殿下!リュスターク殿下!」
抜けるような上天気のその日、イスファン国最北端にある砦には、焦りを隠せない従者の大声が響いていた。カツカツと石の床を叩く足音は、どうやら走っているようだ。
「うるさいぞ、アーク!」
廊下を叫びながら走る従者に、当の本人も大声で応えながらカフスを留める。
「おっと、こちらにおいででしたか」
扉を開ける音も荒々しく顔を覘かせた従者に、リュスタークは苦い顔を向ける。
「お前は、廊下を叫びながら走る前に私の部屋を探すべきじゃないのか?」
「こちらには一番に伺いましたよ。どうもわが主は出入り口を誤認しておられるようでして」
その主を前に、しゃあしゃあ言い放つアークの視線は、開け放たれた窓に向けられていた。
「お前か、鍵を閉めたのは」
「閉めたはずなんですけどねぇ」
盛大な溜息の先で、カーテンが軽やかに揺れる。何故か外された窓が片方、壁に凭れかかっていた。
「本来の鍵以外のモノで締めるな。開け難い。遅れたらお前のせいだぞ」
「いやいやいや、表から入ってくださいよ。しかもあれ、開けてますか?外してますよね?」
呆れたように言うアークにリュスタークは肩を竦めた。
「出てないものが入ってきたら、護衛は厳罰ものだろう。可哀想なことを言うな」
「可哀想なのは主を捕まえられない俺ですよね?」
「扉の前に見張りを置くな。抜け出しにくい。そういえば、お前の引き出しに、サインの入ってない始末書が何枚もあったぞ。少し減らしておいた方が良いんじゃないか?」
「いやいやいや、そろそろ減給もんですから。今月マリーの誕生日があるんです。ホント勘弁してください」
「先月がリリーで今月がマリー?来月はさしずめラリーか?」
「いや何で来月男ですか」
「安心しろ、次は誘ってやる」
「それのどこに安心の材料が?…ってか、反省してください、って話でしたよね?」
「探すのが嫌だから一緒に行きたいって話だよな?」
渡したラピスラズリのブローチを返され、アークは無理やり主のスカーフにそれを留める。
「いつものがいい」
「リディアンリーヌ嬢の目は夜空を思わせる深い青だそうですよ。きちんと色合わせしてください。あれだけ探しても見つからなかったのですから、件の少女のことは―――」
「分かってる。今日の午後には婚約式だ。今見つかったところで…」
「………」
黙り込んだ主に上着を着せ掛けて準備は完了した。
リュスタークは着慣れた軍服ではない王族の正装に、少し窮屈そうに両襟を引っ張り苦く笑う。
「さ、出るぞ」
重くなった空気を断ち切るように言うとリュスタークは足早に扉へ向かった。
その背を追いながらアークは思う。
王家に生まれ、容姿にも文武にも秀でた主が唯一手に入れられなかったもの。
焦がれて焦がれて、恋がれた少女。
一緒にいたのは10年前のたった一月。6歳の少女に恋した13歳の少年。
幼い恋はあまりに真っ直ぐで揺るぎなく、切ないほどに頑なだった。
迎える根回しを終え、5年前から探し続けている少女は、その消息すら知れない。手掛りの容姿すら成長期の壁に阻まれて確かなものではなかった。町の子供だと思い込んでいた5年をどれほど悔やんでいただろう。
執務の合間に時間を作っては、探査の手を伸ばす主の奔走を、時に手伝い、時に諌め、間近で見続けたこの数年。それはアークにとっても胸が締め付けられるような、焦燥の伴う年月だった。
―――願わくば、主の心に寄り添ってくれるような、そんな女性だといい。
すぐには諦められないであろう主の為に、アークはらしくもなく静かに神に祈った。
昼(side:リディアンリーネ)
「ひめさま?!」
ここはラティスハルクの最南端、イスファンとの国境にある町、ロズウィル。…の、唯一の宿屋で、一人の女性の裏返った叫び声が上がっていた。彼女の名はマルヴィナ。リディアンリーネの乳母にして、この度の婚約式後もイスファンに追従するためについてきた女性だったが……
「ラーナまで!」
二人を前に早くも自らの決心が揺れていた。
「ご…ごめんなさい。ラーナを叱らないでね、私を助けようとして巻き添えになっちゃっただけだから」
「そもそも今日は姫様の婚約式です!それをこっそり宿を抜け出しただけでなく、こんな時間まで帰ってこないなど!」
リディアンリーネを浴室に追い立てながら、二人の後ろ姿に大きなため息をつく。頭についた木の葉や小枝のみならず、その背後は泥だらけ。どうやら派手に転んだようだ。
―――あと4時間、移動と待機を考えれば3時間を切る時間しか残されていない。
歩きながら次々に指示を飛ばす。
―――沐浴にマッサージに着替えに化粧に……ああ!もうっ!!とにかく間に合わせなくては、お任せくださった旦那様に合わせる顔がないっ!!
リディアンリーネとて、この度の婚約の重要性を理解していないわけではなかったが、式が国境で行われると知って、最後に確かめずにはいられなかったのだ。
いつもの待ち合わせ場所に少年が、いや、今となっては青年が、いないことを。そして何より、10年に及ぶ初恋に別れを告げるために―――




