37.失われた笑顔と苛立ち
その日、リュスタークは朝から苛立ちの全てを仕事にぶつけていた。
朝からの生憎の雨に、東屋に気分転換に行くこともできない。
倍速で進む仕事に、最初嬉々として書類を持ち込んでいたアークも、昼を過ぎる頃には心配げな表情を浮かべ、夕刻には忠告をし、つい今し方、その手元から書類を取り上げたばかりだった。
「アーク」
地の底を這うようなリュスタークの声にも、アークは動じる風もなく、その手元に書類の代わりに紅茶を置いた。
「今日の分はとうに終わっていますよ。急ぎのものはないのですから、もう休んでください」
「調べはついたのか?」
「いいえ。昨日報告したものと変わっていません」
「何かあるはずだろう」
苛立たしげな勢いのままに、手にした紅茶がカップの中で揺れる。
苛立ちの原因はわかっていた。
今日で既に1週間。
リディアンリーネの笑わなくなってしまった原因が分からないからだ。
遠乗りに出かけた泉で、その笑顔を見たのが最後だ。回廊で別れた折、その顔に笑顔が浮かんでいたかどうか、覚えがない。
リディアンリーネがリュスタークに向ける顔のほぼ8割は、衒いのない笑顔だ。
だからその時もそうだと思っていた。
何時もならベール越しでも、その気配を察する事が出来るはずだった。
だが、あの時は遅れてしまった会議に気が急き、助け降ろしたリディアンリーネが、笑顔を浮かべていたかどうかどころか、どんな表情であったかすら定かではない。
翌日は疲れが出たと、朝リュスタークが会いに行った時はまだ起きていなかった。
起きずにゆっくり休むように言ったのはリュスターク自身だ。
その翌日、会いに行ったリディアンリーネからは、既に笑顔が失われていた。
否。微笑んではいる。
どこか不安そうな、寂しげな微笑みを、一生懸命浮かべてはいるのだ。
―――あれは…
見覚えのある笑み。そう、嘗て
―――婚約式の時に浮かべていた……
ここしばらく見ることのなかった笑みだった。
何かあったはずだと聞いては見たが、リディアンリーネはただ何もないと首を振るばかり。
侯爵家の接触でもあったかと調べてもみたが、特にその形跡もなかった。
遠乗りの日の足取りも追ってみたが、ルシーの見舞いに行ってくれたらしき他は、特に変わったこともなく、疲れたせいかその夜は早めに床についたとか。
その後も八方手を尽くしては見たが、上がってくる報告は特に目新しいものもなく、リディアンリーネに笑顔が戻ることもなかった。
泉での会話を思い返してみても、特に思い当たることもなく、帰りの馬上で身体を支えた時にも、特に緊張された記憶もない。
自身に原因がないならと、探索を命じてみても何も上がらない。
ここまで探索が意味をなさないこともなく、リュスタークの苛立ちは日々増していた。
守りたいと思っていた笑顔が消えても、その理由すら見当もつかないなど。
「主、そろそろお休みになられては?」
掛けられた声にカップを置くと、ここ1週間、すっかりそこが定位置になってしまった眉間の皺を揉む。
「…そうだな。アークも、今日はもういいから休んでくれ」
「はい」
カップを片付け、部屋を辞すアークをぼんやりと見やりながら、リュスタークは小さく息を吐いた。
―――アークの言う通り、今日はもう休んだほうがいいか…
見上げればいつの間にか雨は上がっていた。
窓辺に寄るも、さすがに星は見えないようだ。
宵っ張りのリュスタークの就寝時間には、まだ随分と早い時刻ではあったが、ちらりと書類に視線を遣りながらも、寝室へとその姿を消した。
夜の明けやらぬ間に、リュスタークは睡眠を放棄した。
いつもより早くベットに入ったにもかかわらず、眠れぬままに輾転とし、遂にはそれを諦めその身を起こす。
昨夜雨の上がった空は、そのまま晴れることに決めたようだ。小さな星々が夜空を飾っている。
リュスタークはさっさと着替えをすませると訓練場に向かった。
剣を振ること2時間。
漸く空が白みかけた頃には、足場の悪いそこで散々剣を振り回したリュスタークの身体は、泥跳ねだらけとなっていた。
場内の隅に設けられた水場で水を浴びると、用意された着替えに着替える。
起き抜けよりも幾分すっきりした面持ちとなったリュスタークは、自室に帰ろうと訓練場を後にした。その、帰り道
「殿下」
「早いな、エルノ。もう交代の時間か?」
回廊で跪く若い男にリュスタークは声を掛ける。
「いえ、下町に動きが」
「動いたか」
「はい」
「まずいな…昨日までの雨で訓練は延期になった。動いたのは見習いの者か?」
「いえ、傭われ者のようです」
「是非もなし、か。動かせるものは?」
「左軍中隊長より小隊長を1名ずつ借りております」
「100名か。十分だな。一人残らず捕縛せよ」
「直ちに」
「着替えたら追う。繋ぎを一人寄越してくれ。…逃すなよ?」
「はっ」
エルノが身を翻すのを見送り、リュスタークは護衛を振り返った。
「カイ、聞いたな?」
「はっ」
「すぐにセヴェリに連絡し、第4近衛騎士団全員を動かしてくれ。護衛は不要だ。半数はエルノの後を追い、半数は私と共に」
「直ちに」
カイは弾かれた様に走り出し、リュスタークも足早に自室に戻る。
着替えが終わった頃アークが顔を出した。
「おはようございます、主」
「おはよう、アーク。悪いが今日の予定はキャンセルだ」
「手配します。動きがあったとか?」
「ああ。叔父上と従兄弟殿に連絡を」
「かしこまりました。見張りは?」
「トルスティに手筈は話してある。直ちに連絡を」
「はい」
「リディに今日は部屋から出ぬよう伝えてくれ。後、アンセルミに他の近衛と連絡を取り、厳戒態勢を敷くようにと。できればアークはリディの側にいてやってくれ」
「よろしいので?」
戯けたように聞けば、リュスタークはその厳しく結んだ口の端を少し緩める。
「頼む」
「この身に変えまして」
いつになく真剣な光をその双眸に宿し、カッと踵を鳴らして騎士の礼をとるアークに、リュスタークは頷いて応えた。
「行ってくる」
「お気を付けて」




