36.確信と恐怖
楽しい時間は瞬く間に過ぎて行き、陽はとうに中天を過ぎていた。
リュスタークは慌てて指笛で馬を呼ぶと、何処からともなく青毛の馬が姿を現す。
「慌ただしくてすまない。そろそろ帰ろうか」
「素敵な所へ連れて来てくださって、ありがとうございました」
「またゆっくりね」
「はい」
再びベールを被ったリディアンリーネを馬上に引き上げて、リュスタークは森の出口を目指す。
帰りの道中はあっという間に過ぎて行った。城の城門が見えると、祭りの後の物悲しさを覚える。それを振り払うようにリディアンリーネはリュスタークを仰いだ。
「イスファンの方は皆リューク様のように馬術がお上手なのですか?」
「ん?」
「兄様達に乗せてもらった時にはもっと馬上が揺れるんです。何か特別な訓練を?」
「ああ」
リディアンリーネの疑問にリュスタークはくすりと笑みを零した。外周を進めながらそっと馬の首を叩く。
「それは、私の技術ではなくこいつの手柄かな」
「え?」
不思議そうに馬に視線を向けるリディアンリーネに、リュスタークは言葉を継いだ。
「こいつ…ルークの走り方が少し変わってるんだ。普通は斜体歩と言って左前足と右後足、右前足と左後足が同時に動く。ルークの場合は側対歩と言って左前足と左後足、右前足と右後足が同時に動く。斜体歩に比べて側対歩は揺れが少ないんだけど、馬にとって自然なのは斜体歩だから、教えてできるものじゃないんだ。偶々ルークの親が側対歩でね。それを見て育ったルークも側対歩になったってわけ。もっと人工的に教えられると、弓箭隊の命中率が安定するんだけどね」
「そうだったんですか…」
「ルークの親が私の初めての馬でね。側対歩の馬にばかり乗っていたから、斜体歩の馬に乗る腕前は、エルンハルト殿達とそう変わらないんじゃないかな?以前乗ってるところを見たけど、ぎこちなくは感じなかったな」
話しているうちに回廊に近付く。
分厚い書類を手に出迎えるアークに視線をやると、リュスタークは眉間にしわを寄せた。
「……あいつ…」
「親馬はもう?」
「ん?…ああ、ルシーは今体調を崩してるんだ」
「え?」
「もう20歳馬だからね。また元気になってくれるといいんだが……アーク!」
回廊に着いたリュスタークは、リディアンリーネが身体を強張らせる前にルークから降りるとアークに声を掛けた。
「楽しかったようで何よりですが、遅れてますよ」
「分かってる。それが資料か?」
「はい。このまま直接行ってください」
「分かった……リディ?」
述べた手に反応を示さないリディアンリーネにリュスタークは声を掛ける。
「あ…はい」
その手を取り、馬から降りればリュスタークに抱きとめられる。
覗き込む空色の優しい双眸に、幼い少年のそれが重なった。
「お疲れ様、リディ。ゆっくり休んで?」
ふわりと笑うその微笑みに胸が高鳴る。
「ありがとうございました…」
「うん、またね」
―――りゅう……なの?
ぽんぽんと軽く頭を叩いてリュスタークは書類を手に回廊を渡っていった。
思わず胸元に手をやれば、長くそこにあった指輪は、今はもう外されている。
―――久しぶりにりゅうのこと、思い出したから?…でも……
馬の名前まで一緒だったりするものだろうか。
現在20歳馬で9年前なら、出会った時乗っていたのはその馬のはずだ。
呆然と立ち尽くすリディアンリーネの疑問に答えられる背中は、すでに回廊の向こう、視界から消えていた。
―――瞳の色は一緒…でもりゅうの髪はもっとカールしてたし、声だって…服だって……リュスタークって、どう略してもりゅうにはならないよね…?
混乱の極みにあるリディアンリーネをまず襲ったのは歓喜。次いで疑問と………恐怖―――
『これはね、形見の指輪なんだ』
ある時胸元から溢れたそれをうっとり見つめるリディアンリーネに、りゅうは大事そうにそれを見つめながら教えてくれた。
『僕と一緒にイスファンに来てくれる?』
『形見の指輪なんだ』
『僕のお嫁さんになって欲しいな』
『形見の…』
―――ごめんなさいごめんなさいごめんなさい…
ベールの内でリディアンリーネは思わず耳を塞ぐ。
―――確かめなきゃ…
顔を上げたリディアンリーネの視界を馬を引く近衛の姿が掠めた。
「あの…!」
その夜、出された夕食に殆ど手をつけることなく、リディアンリーネは疲れを理由に早々にベットに入った。
なんとか平常心を保とうとしたものの、それ以上は無理だったのだ。
灯りを落とした寝室のシーツの間に潜り込んだリディアンリーネに、今日に限っては一向に睡魔の訪れはない。
―――りゅうだった…
埋もれたシーツの中、目を見開いたままのリディアンリーネは昼間のことを思い出していた。
あの時、ルークを厩舎に連れて行く近衛に頼んで、彼女自身も厩舎を訪れた。リュスタークの馬の見舞いに来たといえば、馬丁はその馬房の位置を教えてくれた。その、奥にある馬房で、見覚えのある芦毛の馬が、ふかふかの藁に腰を下ろしていた。
足音に首を擡げたルシーは、近付くリディアンリーネを見、―――そっとその首をすり寄せる。
『ルシー?』
話しかければ、ヒンと小さく嘶く。そうですよ、とも、久しぶり、ともつかない返事に、その首をかき抱いた。
『ルシーなのね』
その鬣を転がるように落ちる透明な雫に、リディアンリーネは自身が泣いていることを知る。
ずっと会いたいと思っていた。
会って謝りたいと。
―――だけど
恋を自覚した今となっては、それを告げるのが怖かった。
初めて会った時、リュスタークには好きな人がいる事を感じていた。
その顔から、表情が抜け落ちる程に追い求めて止まない人が―――
―――リューク様は私を覚えてはいない…
覚えてもいない昔の知り合いが、大切な形見の品を壊してしまったと知ったら…
向けられるかもしれれない怒りや嫌悪を想像するだけで心臓が痛くなる。
―――ううん、怒られるのは当たり前なのよ。…でも
今、向けられているあの優しい微笑みも言葉も眼差しも……
失い難いそれら全てを、失ってしまうのだろうか。
―――こわい
掌から幸せが溢れていく…
思い浮かべるだけで凝りそうになる胸をぎゅっと握りこむと、その双眸を固く閉じ、シーツの中で胎児のように丸くなる。
告げることも告げないことも決められないままに―――




