1.幼少期 邂逅
ラティスハルクとイスファンが長く続いた小競り合いの手を、とりあえず休めようと決めたのは、リディアンリーネが6歳の夏の終わりのことだった。着の身着のままでついてきた彼女は町の子供の服で身軽に出歩く。慣れると簡素なその服はとても動きやすく、好奇心旺盛なことも手伝い、早くも馴染んだリディアンリーネは一人で出かけることもしばしばあった。
幼いとはいえ、町の子供の中に違和感なく溶け込めている公爵令嬢とは如何なものか…
素性の知れない子供にさして疑問も持たれなかったのは幸いだったが、ロスガルド公爵はがっくりと肩が落ちるのを禁じ得なかった。
交渉が始まって早一か月。かつての敵対国同士に信頼関係などあるはずもなく、その交渉は難航を極め、既に暗雲が立ち込めていた。父親がなんとか糸口を見つけようと、交渉のテーブルに釘付けになっていた頃…
その日、三日間降り続いた豪雨がきれいに晴れ上がり、リディアンリーネは先週見かけた木苺を取りに、籠を持って出かけていた。
「まずジャムでしょ、果実水もいいし…タルトとか、作ってもらえないかなぁ…」
ぶつぶつ呟きながら歩くその腕の中の籠には、木苺が山と盛られていた。
ふんふんと鼻歌さえ飛び出す軽快な足取りが、ぴたりと止まったのは川の手前。
「あれ?」
来た時にはあったはずの橋が流され、川辺には杭と残骸が残るのみ。
「どうしよ……」
町も駐屯所も川の向こうである。しばし悩んだリディアンリーネは、とりあえず駐屯所のある川上に向かって歩き出した。
ぬかるんだ川縁は泥に足を取られて歩きにくかったが、飛び散る泥水が楽しくてつい勢い良く足を下ろし、その水を跳ね上げる。思ったより深く泥に沈み込んだ足は、その泥に靴を取られ、バランスを崩す。手元が狂い、川に落ちていく籠に気を取られたまま、リディアンリーネの体は川へと傾ぎ
「あ…」
小さな水柱と共にその体は川へと飲み込まれた。
悲鳴を上げる間もなく水中へと沈み込んだその小さな体で、何とか水面を目指してもがいては見る。が、水流に揉まれて思うように動けず、開いた口からは空気ではなく水が流れ込んでくる。咳き込めば口から空気が溢れ、リディアンリーネはその意識を手放した。
川上を目指し馬を進める少年の目に映ったのは、川面を流れる真っ赤な何か。
―――血!?
川上ではイスファン国とラティスハルク国が停戦協定の協議中であるはずだった。
何かが拗れて最悪の事態でも起こったかと目を凝らし、慌てて川に近づくと、流れてきたのは木苺だった。ほっと息を吐く間もなくそれとは異質の赤と…
―――服??
浮き沈みする幼い少女を見咎め、少年は慌てて馬首を返した。
「ルシーちょっと急いで」
泳ぎに自信がないわけではなかったが、さすがに増水した川に飛び込んで、流れる少女を助けられる気はしなかった。が、放っておくわけにもいかず、慌ててその後を追う。
少し川を下ったところで、運よく川面にせり出した大樹の枝に引っかかった少女を、少年は川岸に引っ張り上げた。
停戦協定でラティスハルクに興味を持ったイスファンの少年は、お使いの途中でその国境の町をこっそりのぞきに行くところだった。
「ラティスハルクの子…」
水を吐かせ、何とか呼吸を取り戻した少女を、少年はまじまじと見つめる。
抜けるように白い肌、燃えるようなストロベリーブロンドの髪。閉じられた双眸は晴れた空のようだろうか。それともそよぐ森の木々のように輝く緑か。白磁の人形を思わせる整った相貌から、魅入られたように目が離せないでいた。
乾いた服に着替え、少年は少女の傍らに座り込んだ。
ぺちぺちと軽くその頬を叩いてみると、小さな呻き声と共に少女は眉根を寄せる。薄ら開いた双眸に移りこんだのは金髪の優しげな面持ちの少年。
「んぅ…王子…様…?」
絵本の王子様そっくりの少年は目を瞠った。と、同時に
「木苺!!」
意識を取り戻した途端に飛び起き、叫んだ少女に少年は目を丸くし、次いで堪えきれない笑を零した。人形のようだった少女は、眼を開けた途端に生き生きとした人となった。
「あれ?」
少女は見知らぬ少年を見、自身のびしょ濡れの体を見下ろす。
「―――えっと………ありがとう……ございました?」
「疑問形なんだ?川に落ちたの、覚えてる?君、どこの子?」
「うん………だって、お兄ちゃん濡れてない…」
「…へぇ…君いくつ?」
「6歳。ロズウィルの町…知って…ますか?」
答えながらくしゃみをした少女に少年は服を脱ぐように促す。
「君も着替えた方がいい。僕のだけど、良かったら乾くまでこれを着てるといいよ。脱いだら貸して」
少女に背を向けると少年は手早く火をおこす。
「ロズウィルなら知ってる。服が乾いたら送ってくよ。夏も終わりだけど、この天気ならすぐ乾くだろ」
水を沸かす準備をしながら手早く椀に何やら入れる。
「着替えた?」
「うん」
「貸して、干してくる。君はここで火の番してて」
「…リン…」
「ん?」
「私、リン。君じゃない。お兄ちゃんは?」
「ああ、うん。僕はリュー…」
「りゅう?」
「…うん」
少年は濡れた服を受け取ると手近な木にするする登り、枝に紐を渡して干す。ついでに目についた赤い実をもぐと枝から飛び降りた。
「ほらこれ。…っと、沸いたな」
リンに赤い実を渡すと沸いた湯を椀に注ぐ。
「これも飲むといい。体があったまるから」
椀を渡してくしゃりと頭を撫でると隣に座る。
「ありがとう」
それから取り留めもないことを喋りつつ服が乾くのを待ち、りゅうはリディアンリーネを町の近くまで送り届けた。
「ほらあそこ。ここからは一人で帰った方がいい」
「ありがとう。りゅうは来ないの?」
「僕は行かない方がいい」
「どうして?」
「僕は………イスファンの人間だから」
堅い声で告げるりゅうにリディアンリーネは相変わらず首をかしげたまま問う。
「それで?」
「町の人やご両親はいい顔をしないだろう」
「イスファン…」
口の中で呟くように繰り返したリディアンリーネは、何かを思い出したように破顔した。一度に花が咲いたような笑顔に、りゅうは面食らったように目を見開く。
「今仲直りのお話してるとこだ!ちゃんと覚えてるよ」
褒めてと言わんばかりのリディアンリーネにりゅうは戸惑いながら頷く。
「そう」
「でもリンはりゅうと喧嘩なんてしてないよ?」
「イスファンは…嫌いじゃない?」
「イスファンは知らない。でもりゅうは好き。リンを助けてくれたし、優しいし、一緒にいると楽しいし。りゅうがイスファンならリンはイスファン好き」
リディアンリーネのまっすぐな言葉にこみ上げた熱い塊を飲み込み、眩しそうに眇めた目を閉じた。
「そうか…ラティスハルクは憎しみを伝えていないのか……」
りゅうの小さな呟きは口の中に消え、リディアンリーネには届かない。
「本当に………平和な時が、来るのかもしれない……」
「ねえ、本当に来ない?」
「うん、僕にはまだ無理だ」
「もう会えない?」
「町には行けないけど、もしリンが僕に会いたいというなら、リンに会いに来るよ。ルシーもきっとリンに会いたいだろうし」
愛馬の首を軽くたたきながら向けられた微笑に、リディアンリーネの胸は知らず高鳴る。
「会いたい」
「じゃぁ、次の日の曜日にリンが教えてくれた木苺の木の辺りで待ってる。これでいい?」
「うん」
「さ、もう行って。そろそろ日が落ちる。心配してるよ」
「うん、またね、りゅう。助けてくれて、ありがとう」
「またね、リン」