15.涙
ゆらゆらゆらゆら
舟は優しく左右に揺れる。
進むではなく、戻るのでもなく。ただ、そこにある。
覗き込んだ水面はなぜか不透明で、揺れる波紋がただ広がっていく。
水の上を揺蕩いながら、薄明るいそこで、リディアンリーネは何かを待っていた。
静かだったそこに徐々に騒めきが聞こえだし、あの時のバザールの喧騒が耳に届き始める。
バザールを意識した途端に、周囲に小舟が浮かんだ。
狭い水路を小舟で行き交いながら、威勢の良い声をかけつつ客引きをする少年少女達。
ふと、差し出された花を受け取る。それを皮切りに次々に花が差し出され、乗っている小舟はすぐに色とりどりの花でいっぱいになった。
花はやがて食べ物になり、今朝見た覚えのある屋台の食べ物が次々へと差し出される。
『美味しいよ』
顔が言う。断る間もなく差し出され、置いていかれる数々の料理。綺麗にカットされたフルーツ。山と盛られた焼き菓子。
どれも見覚えのあるイスファンの食べ物だった。
―――お母様や、お姉さま達にも食べさせてあげたいな…
ぽつりと思う。
『リディ』
懐かしい声が呼ぶ。
『こちらにいらっしゃいよ』
―――イェシカ姉様
『お母様達も待っていてよ』
―――ディオーラ姉様
『皆で食べましょう』
―――お母様
ぐらりと舟が揺れ、思わず目を閉じる。煩いほどだったバザールの喧騒が次第に遠くなっていった。
―――リディ
肩を揺する優しい手に、そっと目を開けると、そこは懐かしい我が家の食卓だった。
懐かしい侍女が給仕するのはバザールの食べ物。アンバランスな食卓に、それでもそれを囲む人々の顔は明るかった。
懐かしい顔。
ずっと一緒にいたのに、この先はもう会うことさえ難しくなった、家族の顔。
じわりと、溢れたのは涙。
自分の手なのに、拭うために上げることもできなくて、漸く返した掌に、こぼれた涙がころりと落ちた。
掌の上でころころ転がりながら、涙はやがてキラキラ輝く青いい石となる。
握りしめたそれは、小さな頃にもらった約束の指輪。
『この指輪がぴったりになる頃、迎えに行くよ』
リディアンリーネの手を取るのは13歳の少年。取り上げた指輪をリディアンリーネの指にはめると、その指先に口づけを落とした。
『リン、迎えに来たよ』
―――嘘よ。りゅうは来ない
『リン』
―――来ない
『リン』
囁く声に湧き上がるのは恋慕と罪悪感。比べれば僅かに罪悪感が勝っており、恋しくて恋しくて、申し訳ない。
―――だって約束の指輪は、私が壊してしまった
目印は既に失われているのだ。
大事に大事にしてたのに。
大事に大事にしてたから―――
指に嵌められた指輪は、いつしかその色を失い、真っ白になっていた。
静かに目を開けたリディアンリーネは、その頬を流れる涙を拭う。
故郷を出て、早2ヶ月が経っていた。
イスファンの王城についてからの1ヶ月は怒涛のように過ぎ去っていた。せわしなく過ぎ去る日常は故郷を思う暇もない。まして―――
夜明けはまだ遠く、空では星が瞬き、満月は煌々と地上を照らしている。
リディアンリーネは起き上がるとこっそりと部屋を抜け出し、東屋へと向かった。
「よし、終わった」
「こちらも終わりましたね」
カランとペンを置いてリュスタークは伸びをする。
ここ一月休む暇もなく、遅くまで仕事をしていた二人の顔には疲労が色濃く出ていたが、溜まりに溜まった書類がひとまず片付いた今、その雰囲気は晴れやかですらあった。
「これで明日からは通常業務だけだな」
「左軍の仕事が、増えますけど」
「今は考えたくない」
「…同感で。…副官の指名は決まりましたか?」
「いや、明日にでも騎士団を覗いてくるかな。ベルガ川にも工事前に視察に行っておきたいし。土嚢の積み上げはもう終わったのか?」
「粗方。雨季に間に合いそうだと聞きましたが、詳しく調べますか?」
「いや、それより工事の材料確保の進捗を調べてくれ」
「はい」
「ま、とりあえず今日は休むぞ」
「ですね」
大きく伸びをするリュスタークの前の書類を回収して、アークは部屋を後にした。
その背を見送り、ふと空を見上げる。窓越しに見える月はすっかり丸くなっており、そういえばここしばらくゆっくり月を見る暇もなかったことを思い出す。
机上のグラスを取るとテラスへと続く窓を開けた。
ここ最近の記憶にある月はまだまだ三日月だったはずだ。随分と余裕のない日々を送っていたなと自嘲しながら向かった先に、先客がいるのを見つけてふと足を止める。
空から注がれる銀の光を纏い、憂い顔で手元を見つめる少女は美しく、幻想的であった。
絵画鑑賞と託けながら、リュスタークは手近な壁にもたれてリディアンリーネを眺める。
それはとても美しい情景ではあったけれども、同時にとても寂しそうでもあった。
―――寂しい…悲しい…
少女の表情に合う言葉を探しながら酒精を口に含む。
見られているとも知らぬリディアンリーネは、掌に転がしていた石をそっと握り込み、拳に唇を落とす
―――ああ、愛しい、だ
つきり。
小さく痛んだ胸は、あまりにも美しい情景のせいか。
見てはいけないものを見てしまった様な気がして、リュスタークは静かに踵を返す。
月の光を受けて白く輝いていた少女の掌にあった白い石が、払っても払っても目に焼き付いて離れなかった。
少し仕事が忙しくなってきました
話のストックがないため
当面の間定時更新は厳しそうです。
出来次第の更新となりますが
1日1話は頑張っていきたいと思いますので
よろしくお願いしますm(__)m




