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プロローグ

 「にぃ~しぃ~、陸奥の~風。にぃ~しぃ~、陸奥の~風」


 呼び上げの声を受け、西の大関・陸奥の風が土俵に上がる。


 陸奥の風――本名、長内おさないたけしは青森県青森市出身の23歳。188cm、197kgの恵体を武器に、高校三年の時に高校横綱・アマチュア横綱の二冠を達成。高校卒業と同時に幕下付け出し10段目で角界入り。


 その後も順調に番付を上げ、20歳で三役に昇進。特に調子の良かった今場所では13勝1敗で千秋楽を迎え、今日勝てば念願の初優勝である。


 彼は角界の次代を担うことを期待される若手として、不退転の決意を胸に目の前の相手を睨みつけた。


 相手は見上げるほどの巨漢である。上背は188cmの陸奥の風よりも、さらに拳二つ分近くも高い206cm、体重こそ197kgを誇る陸奥の風には及ばないものの、痩せソップ型の力士としては異例とも言える185kgの骨太で筋肉質な体。蜂蜜色の髪を大銀杏に結い、彫りの深い顔立ちは精悍な雰囲気を漂わせている。


 彼こそは40歳の誕生日を迎えて、なお現役最強と呼ばれる東の横綱・白麒麟である。


 東京都江戸川区の出身。元アメリカ海兵隊の軍人であった父と日本人の母との間に生まれたハーフ。小学四年の時に亡妻の勧めにより相撲を始め、小学生横綱・中学横綱・高校横綱・アマチュア横綱などのタイトルを全て手に入れた後で角界入り。


 瞬く間に大相撲の横綱にまで上り詰め、マスコミからは『青い眼のサムライ』『スモウサイボーグ』などと呼ばれて大相撲の頂点の座に20年以上もの時間君臨し続ける、生きながらに伝説と化した大横綱である。


 今場所での成績は13勝0敗1休。1休の原因は食中毒と発表されているが、本当は亡き妻の命日に墓参りへ行っていたというのは公然の秘密であった。


 陸奥の風は幼い頃から憧れ続けたヒーローを前に、改めて気合を入れる。


 今までの対戦成績は陸奥の風の全敗である。だが前回の敗戦からは半年近くの時が経ち、15kgを超える増量に――ボクシングならば8階級分にも相当する増量に成功した今の自分は間違いなく強くなっている。


 それに比べ、白麒麟はまるで変わってはいない。


 未だに衰えこそ見せないものの、だからといって強くなっているわけでもない。時間は若い彼の味方だ。


 ぴしゃり、と頬を叩いて土俵に手を着き、立ち合いに臨む。


 土俵の上、わずか70cmの距離を置いて仕切りの体勢で向かい合い――



 「はっきよい!!」



 両者の呼吸が合った瞬間に勝負が始まる。


 二人ともその巨体に似合わぬ立ち合いで、低く、速く、そして強くぶちかます。


 頭と頭がぶつかり合い、鈍い音が響く。


 巨漢力士のぶちかましの衝撃は優に2tを超える。


 だが陸奥の風はそのような衝撃をものともせずに、そのまま白麒麟の廻しを取りに行き――、強烈な一撃が陸奥の風の顔面を襲った。


 廻しを取ってからの投げ技を得意とする……いわゆる四つ相撲を好む陸奥の風に対し、白麒麟が得意とするのは距離を取っての突き押し相撲だ。


 四つ相撲も苦手ということではないが、やはり彼の真骨頂は長いリーチを生かした突っ張りと押しである。


 相手の体を下から上に押し上げる、基本に忠実な突っ張りの連打が陸奥の風の胸を、首筋を、顔面を捉える。


 だが、陸奥の風はそんな突っ張りの嵐を腰を落とし、歯を食いしばりながら耐え、体を捻じ込んでいく。


 そして実時間ではほんの数秒、本人には数時間にも感じられる時間の果てに、ついに陸奥の風が白麒麟の廻しを掴む。


 しかもその形は右腕が相手の左腕の上から、左手が相手の右腕の下から入る左四つの形。これは陸奥の風が最も得意とする形である。


 両者はそのまま土俵のほぼ中央で胸を合わせ、がっぷりと組み合い、力比べが始まる。


 力士とはその見た目から肥満体のように誤解されやすいものの、実際は衝撃を吸収する為のぶ厚い脂肪の鎧の下に常人の2倍以上、人によっては3倍近い筋肉を隠し持つ化け物の集団だ。


 さらに、この二人はその化け物たちの中でもトップクラスの実力を有する怪物である。


 人間としてあるまじき怪力を持つ二人の力比べは数秒の間続き、



 「うらぁ!!」



 陸奥の風は全身の力を振り絞り、白麒麟の体を押し込んでいく。


 白麒麟に比べれば足が短く不恰好といわれる陸奥の風だが、それは組み技系の格闘技者としては重心の低さに繋がる優れた資質である。


 その低い重心を生かして、下から上に押し上げるようにジリジリと寄せていく。


 割れんばかりの歓声が響く中、とうとう白麒麟の足が俵にかかる――だが、



 (なっ!?)



 次の瞬間、陸奥の風の両足が宙に浮く。


 土俵際、あと10cmも押し込めば陸奥の風の勝利という所で、彼が押すタイミングに合わせ、白麒麟は廻しを取っていた左手で相手のわきすくうように持ち上げ、腰を回転させながら投げ捨てる。



 “掬い投げ”。



 レスリングでは“ヒップスロー”また柔道では“大腰”と呼ばれ、多くの組技系格闘技で使われる、ありふれた技。


 それ故に使い手を選ぶ技でもあり、柔軟な上半身と怪力が必要不可欠な難易度の高い技であるが、白麒麟にとってはアマチュアの頃から組まれた際の切り札として使い続けた得意技である。


 宙に浮いた陸奥の風は一度上下真っ逆さまになった後、前方に一回転し背中から叩きつけられる。


 この瞬間、白麒麟の史上最多100回目の優勝が確定した。



 しかしそれだというのに、彼の顔には喜びも安堵も、なんの表情も浮かんではいなかった――






 ダン、ダンという鈍い音が部屋に響く。


 ここは白麒麟――本名、馬坂うまさか雷太らいたの自宅に作られた、自主トレーニングの為の稽古場である。


 一般に力士の稽古というのは、早朝より始まり午前中に終了する。


 稽古以外にも多くの雑用をしなければならない幕下以下の力士と違い、十両以上の関取ならば昼食後の昼寝の後は基本的に自由時間であり、夕食の後も同様だ。


 そして自由時間なのだから何をやってもよいと、夕食後オーバーワークにならない程度の稽古をするのは、彼が角界入りして以来20年以上の間続いている習慣である。


 昨日100回目の優勝を決め、祝賀会を終えたばかりのこの日もそれは変わらず、黙々と鉄砲柱と呼ばれる丸太に突っ張りを繰り返していた。


 下から上に突き上げるように体重を乗せ、肩甲骨の動きに注意しながら突っ張りを放つ、この“てっぽう”と呼ばれる稽古は“四股踏み”と共に、力士にとっては基本にして最も重要な稽古の一つである。



 「なんでえ、まだやってんのか、お前」



 そんな雷太に、彼の所属する白応竜部屋の親方であり、義兄でもある元小結・白霊亀――本名、白川道明が声を掛けた。



 「……すいません、親方。もう日課になってますので」



 「ハッ。なに他人行儀な事を言ってやがる。今ここに居るのは俺たちだけだ。昔みたいに、アキにいちゃんとか、義兄にいさんでいい」



 その言葉に、雷太の雰囲気が少し軽くなる。


 義兄のその軽い態度に、今まで何度救われてきたかわからない。



 「だけどよ、大丈夫かお前?いつにも増して、表情が死んでるぞ」



 つい昨日、前人未到の大記録を打ち立てたばかりであるというのに、雷太の表情に喜びは無い。


 ……いや、雷太は自身の妻を、道明の実の妹であり幼馴染みでもあった女性――馬坂明理紗(ありさ)を失って以来、喜びを見せたことなど一度たりとて存在しなかった。


 しかし、それを考慮してもなお、今日の雷太の顔色には生気が無い。


 それはかつての明るく、朗らかであったころの雷太を知っている道明からみれば、少し目を離した隙に消えてしまいそうな危うさを感じさせるものであった。



 「……ええ、明理紗と約束した『100回優勝できるような力士になる』ってのを達成したと思ったら、気が抜けまして」



 「…………そうか」



 道明は文字通り抜け殻のようになった雷太の言葉に何と言って良いかわからず、思わず言葉を濁す。


 押し黙った道明に背を向け、雷太は再びてっぽうを再開する。


 そのままどれほどの時が経っただろう。


 なんの表情も見せず、機械的に鉄砲柱を打ち続ける雷太と、それを痛ましそうに見つめる道明。


 ――そんな二人の前に、唐突に光の塊が現れた。



 「な!?……なんだ、こりゃあ!!」



 「…………ん?」



 その摩訶不思議な光景に思わず取り乱す道明。そして彼とは対照的に、どこか他人事のように光の塊を見つめる雷太。


 もはや、このような珍妙な光景を目の前にしても心が動かないほど、彼の魂は磨り減っているのだ。


 だが、



 【馬坂雷太。貴公の妻は異世界に転生し、我の託した使命を果たすべく奮闘している。望むのならば、貴公を彼女の元に送り届けよう。二ヶ月後に返答を聞く、彼女の元に行くのならば、準備を済ませておくが良い――】



 言葉ではない。そのような“意思”としか言いようの無いものが二人の脳裏に流れ込み、さらに一瞬遅れて不思議な世界の知識が流れ込む。


 二人は現れたときと同じ様に唐突に消えた、光の塊があった場所を呆然と見つめ、



 「……は、…………はは。なんだ、これ?とうとう、頭がイカレちまったか?」



 「さあ、どうでしょうね。ただ、イカレてるって言うんなら、俺はとっくの昔にイカレちまってますよ」



 だが――、呆けたように呟く道明とは対照的に、雷太の目には20年ぶりに、溢れんばかりの生気がみなぎっていた。

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