完全懲悪
こうして彼は英雄として崇められる事となった――などと締めくくられる、正義感に生きた者の物語が、私は腑に落ちなかった。
私はそもそも、善悪というものは両方とも失われるべきだと思っている。善というのは悪の上に成り立っており、誰かの悪意を否定するという「材料」ありきの存在――それこそが英雄と呼ばれる、言うなれば「正義の味方」だと思っている。この理屈を踏まえれば、悪を食い物にして存在し、成立している「正義の味方」が自然消滅する事で平和な世界がもたらされるのではないか、という事である。
ならば、悪の上に立っている正義というのは土台を取り払えばどこまでも沈んでいき、立っていられない。
要は、悪を完全に滅してしまえば英雄と崇められる存在の出現は失われる。
正義心ではなく、崇められる要求を持たない精神で行われる悪に対する撲滅。善の行いが誰かにとっての悪になるから、善悪の連鎖は消えない。
だから、善意ではない何らかの「力」で、それを断ち切ればよいだけの話。
世界の善悪を根こそぎ払拭出来れば――それこそ、平和だ。
正義は、悪が存在するアリバイである。
ならば――。
そう思って、私の思考はいつも終止符となる。
実力なく、権力なき人間に成せる事は少ない。私がこんな考えを有していようと、世界に波紋を生むような一石は投じられない。
だからこれは、あくまで机上の空論――そう、思っていた。
奴に、会うまでは――。
「あなたの望みを叶えて差し上げましょう」
そう、耳障りな汚らしい声で語る眼前の人物。
ある日の、ふとした瞬間――何気なく、振り返ったその視界に映った醜悪な容姿、本能的に嫌悪感を逆撫でされる雰囲気。そして、何もかもを悟った上で私を弄ぶように語る口調で――奴は「望みを叶える」と言った。
胡散臭く、疑ってかかるべき存在を前にして――私は確信した。
下劣な存在だと、無意識に確信してしまうような……そして、願いを叶えてやると言って寄って来る存在は、一つしかない。
「とんだ誘いだ。何が目的だね――悪魔よ」
そう私が強い口調で指摘するように語ると、奴は汚らしい笑みを浮かべる。
「悪魔とは酷い事を言う。……まぁ、否定はしないんですがね」
見つめる度に嫌悪が募る悪魔。
しかし――私は、目を背けたくなる奴の誘いを聞いた以上は忌避できない。奴の力を用いて、あの「偉大な仕事」を成せるなら――悪魔に魂だって、売る覚悟だ。
「さぁ、語れ。私の望みを無償で叶えるメリットのない貴様に、対価を要求しようという目論見があるのは分かっている。それを、言ってみろ」
私が挑戦的に言うと、悪魔は嘆息して外国人風に肩を竦める。
「無償でして差し上げるおつもりなんですが……まぁ、信用なさらないというなら、いいでしょう。ここは一つ、あなたの納得を買うために私の方からも要求を語る事にしましょうか」
「それは何だ?」
急かすように問う私に対して、「まぁまぁ」と言って宥める悪魔。
「あなたの望みを叶えてから、お教えしますよ。その代わり、願いの成就は先払いです。あなたの願望を完遂してから、要求するとしましょう」
「……どうせ、貴様ら悪魔の事だから魂とでも言うのだろう? 私は自分の大きな仕事のためになら、この魂なんぞくれてやる覚悟だ!」
強い口調で語り、したり顔を浮かべる私に対して呆れたように嘆息する悪魔。
「いえいえ。あなただったら、魂なんて欲しいですか?」
「いらん」
「でしょう? ……自分の欲しくないものをあなた、私は欲しがると思うのですか?」
「私は人間、貴様は悪魔だ」
そう私が言い切ると、不服そうな表情を浮かべた悪魔はまたもや、溜め息を吐く。
「はいはい、私は悪魔ですよ。――ならば悪魔らしく、契約は成立という事でよろしいですか?」
「いいだろう、契約してやろう。願い事は――」
私が自分の願望を述べようとした瞬間、奴は手の平を突き出して言葉を遮る。
そして、首を横に振ると悪魔は醜悪に笑う。
気味が悪い心地を我慢して、奴の言葉を待つ。
「分かってますよ、あなたの願い事はね。心配なさらずとも叶えてあげますよ。ですから、あなたに与える事にしましょう。悪を――滅する力をね」
――指ぱっちんで悪を消滅させられるようになった。
自分の悪だと思うものを思い描き、指ぱっちんをすると対象の物、生物、概念を消滅させられるのだ。
しかし、半信半疑だった私。
この力によって行動を起こす前に実験として、悪以外のものを滅ぼせるのかどうかも確かめた。可哀想ではあるが、たった今目の前を通り過ぎた人間一人を想起して指ぱっちんを行ったが、その人物は消滅しなかった。この目で通り過ぎたその人物の背中を見送ったのだから、間違いはない。
――本当に悪だと思ったものしか、滅ぼせないようだ。
ならば――。
私はまず、某国の独裁者を思い描いて指ぱっちんを行った。当然、目の前にその対象が存在しないのだから、成功は確かめられない。しかし、小一時間もすれば速報として各メディアがその悪名高き独裁者の消滅を報じた。暗殺ではなく、事故でもない。ただ、消え失せたとしか形容できないその事象に――「誰が」という問いの答えはない。
善意とか、英雄の存在しない悪の消滅が――成った、のだ。
完全懲悪――。
責任の生じない、裁き。
誰からの賞賛も、恨みも買わなければ、そこから先は行き止まり。正体不明の力がもたらした断罪が、誰かにとっての悪になる事はない。ただ、現象として受け止められて、そこに正義の名は残らない。
それからの行動は、順調だった。
各国の独裁者、悪名高き権力者、宗教の名を語るテロ組織を消滅させる。さらに、人間の身体にとっての「悪」である病魔を根絶したり、事故を生む運の「悪」さを消滅させた。
思いつく悪を消滅させ、自分の「偉大な仕事」を進める最中――また、私の背後に奴が立っており、その明確な嫌悪感に反応して私は振り返る。
「そろそろ、私の願い事を叶えて頂こうかと思いまして」
醜悪な笑みと共に、悪魔は言った。
私は覚悟していた事だから、臆せず問いかける。
「魂ではない、と言ったな……なら、その対価とは何だ?」
そう問いかけられた瞬間、元々浮かべていた笑みを塗り替える下衆な笑みを浮かべた奴に対して――私は思う。
何故だろう。
――この醜悪な笑みを、私は知っている。
そんな私の予感を置き去りに、奴は語る。
「あなたの素晴らしい偉業を――世界中に知らしめる事ですよ」
「そんな事をすれば私の行いとして認知されて――そこに善悪が生まれてしまうではないか。誰かの正義に、誰かの悪になってしまうではないか」
私は悪魔の予想外な要求に狼狽し、たどたどしく言った。
そんな私を見つめて、醜悪に笑む……でのはなく、ただ無表情にこちらを見つめる奴。
「……ですが、それが私の願い事なのですよ」
「ど、どうしてだ……面白がっての事か。困らせて、喜ぶというのか!」
困惑が怒りに変わると、私はそのまま吐露した。
悪魔という長生きの暇つぶし――私は、そう解釈したからだ。
しかし、奴は首をゆっくりと横に振る。
「いえ――あなたのお望みを叶えるのですよ」
「……わ、私の?」
理解の及ばない事を語られた私は、凝視しつつ奴に言った。
しかし、悪魔の無表情は崩れる事はない。
「知られたくない願いを、知らせる必要はない。ですから私は口を噤みましたが、どうやらあなたの中で募っていったようですからねぇ……その思いが。ですから、知られたい願いは、知らせるべきでしょう。そう、
悪を裁く力を持ち――それを周知の事実にするという願いをね」
そう語って、ようやく――悪魔は醜悪な笑みを再び表情に湛えた。
しかし、奴の表情などどうでもいい。自分の功績を誇示する英雄を嫌っていた私の願い事が、よりにもよって……自己顕示欲の塊のような「自分の功績を周知のものとする」とはどういう事なのか。
……違う。
それは、悪魔の語る――口先のまやかしだ。
「そんな事があるか。馬鹿め! 知ったような口ぶりはやめろ!」
私の言葉に、悪魔は呆れたように嘆息する。
「馬鹿、とは……自虐的ですね。この場においては秀逸な言葉ではありますがね。しかし、私は知っているのではなく……分かっているのです。知覚しているのではなく――自覚しているのです。ですから説明しておきましょう。いいですか?
――私はあなた、あなたは私なんですよ。ですから、願いを共有しています。
あなたは嫉妬していたのですよ。英雄と呼ばれる、自分の行いによって功績を得た人間に対して、ちっぽけな存在である己を比べてね。だから、彼らが正義を成り立たせる悪、その材料足る物資を根絶しようとは……嫉妬心に駆られた汚れたくない人間の発想らしいですね。それが恨みだったら、英雄を殺せと願いは言葉を変えるのでしょうが……あくまで目的は邪魔、ですか。しかし、あなたの願望は相手に気付かない善意を働いて、本当は勘付いて欲しいと心に思っている人間の浅はかさによく似ていますよ。そういう、一つの意見を持って世間にぶつけるそれも――あなたの善悪ですよ」
悪魔の語った言葉。
それは事実なのか……問いかけるまでもない。
――否。
悪魔の口八丁な陽動に騙されるな。こうやって私の混乱を誘って面白がっているのだ。こんな奴が私で、私がこんな奴などと――。
そう思った瞬間、私は悪魔の――いや、奴の顔を見た。
醜悪で、本能的に嫌悪を逆撫でされる様相は鏡でも見ているかのようで……。
――そこに立っているのは、私ではないか。
急激な混乱。脳内が冷静な思考を伴わない。脳が絞り出した思考を形にしようにも霧散して、脳内は靄に満ちて鮮明さを失う。どうして、どうして。最早、何に対して疑問を抱いているのかも分からず、ただ焦る。焦燥感に炙られた胸中は火照って、頬が紅潮しているような感覚がする。顔が熱い。熱い。どうして。どうして。
眼前の奴が突然、畏怖の存在であるかのように映って。
それは奇しくも――。
「な、な、何なんだ貴様は! 私の願いを知り、叶え……何者だというのだ!」
恐怖心をバネにして振り絞った声は、蛮勇のようだった。
そんな問いかけに対して、無表情の奴は言う。
「あなたが名付けたでしょう。――悪魔ですよ」
そう言って奴は「自分の半身を悪魔呼ばわりとは酷いお方だ」と呟いて付け加えた。
しかし生憎、取り乱していた私に奴の言葉を冷静に紐解く判断能力などない。
「だ、黙れ黙れ、黙れ。お前など、お前など、消え失せてしまえ!」
私の感情的にただ連ねただけの言葉に対して、奴は醜悪な笑みを浮かべる。それは奇しくも、指ぱっちんで私が悪を消滅させる時に浮かべているであろう表情で。
――奴は語る。
「なら、おやりなさいな。そのために与えた力でしょう。悪を滅ぼす力を与えた悪魔が、その力で滅ぼされる――なんと皮肉な物語でしょう。そうすれば、あなたは私が今から行おうとしている、その偉大な仕事を周知のものとする私側の対価を阻止出来ます。その時――あなたは嫉妬心や自己顕示欲から逃れた、本物の善悪からの離別を成すのです」
その皮肉っぽく語られた言葉で、私の鼓動が大きく脈打つのを感じた。目を見開き、思考の全てが「それ」に集中するのが分かる。
それだ――それしかない。
私の中の悪、それが具現した眼前の悪魔を滅ぼす。
それは――今、真っ先にすべき事だ。
何故、もっと早くそれに気付かなかったのか。奴は私の計画を邪魔する「悪」であり、それもそのはず――「悪魔」だ。
ならば、どうすればいいのかなんて簡単だ。
そうだ……今からでも、遅くはない!
「やってやる……やってやるぞっ!」
私は指ぱっちんをするため、指をそのための形へと組みかえて、力を込める。震える指と指の間に、汗が伴う。息使いは荒くなり、由縁の分からない躊躇いが自分の中で決心を揺るがせる。
やれるか?
ん、……やれるか?
どうしてそんな疑問が私の中で浮かぶのか。
そんな疑問を、眼前の悪魔は嘲笑いながら答える。
「もし、私側の対価を守りたい、と思ったらあなたの負けです。そして、私の今から成そうつするあなたの功績の公表に同意した事になります。そんな程度の思いを込めた力では、私は死なないからです。覚えてますよね? その力は本当に悪だと思ったものしか――滅ぼせない」
「――黙れッ!」
私の激昂と共に、擦れ合う指の動向が目の前の悪魔に引導を渡すべく、ぱちんと鳴った。
「病魔が消えて、職を失った医者の心はきっと面白くないに決まってます。彼らは本当に病魔の根絶を願っているのでしょうか。本当に……病気の無い世界を求めているでしょうか。彼らは、病気を治すために存在するのですから――病気には存在して貰わなくてはなりません。なら、病気にかからなくなった事を喜ぶ者の中で、職を奪ったとしてあなたを良く思わない者もいるかもしれませんね。それと同様に、弁護士は困った人を。探偵は殺人を――それぞれ、失いたいと思うのでしょうか。彼らは生き残るために悪を望んでいると言えます。人間には『必要悪』という言葉があるではないですか。そんな悪という人間の原動力、願望に水を差す概念である正義というのは独りよがりな意見だからこそ『独善的』なんて言葉もあるのでしょうかね。結局、人は正義と正義をぶつけ合って、悪と悪で貶し合うのですよね。そんな世界において大きな仕事を成し遂げたあなたは――きっと、さぞかし幸福なことでしょう」
そう語って、奴は醜悪な笑みを浮かべた。
私が指ぱっちんで行った全ての事が明るみになり、それらの出来事によってさまざまな感情を抱いた人間の矛先は無論――こちらに全て向けられる事となる。
完全懲悪は、失敗した――。
基本的に、世間の悪を滅ぼしたのだから、私は感謝の言葉を多く受け取った。混乱した世界は急激な革命を起こし始めて、そんな立て直しの中で組み変わる法律は改革者である私を罪人とは咎めなかった。しかし、私の事を良く思わないものがいるのも事実だ。
誰しも抱く正義とは――誰かにとっての悪である。
誰しも貫く正義とは――誰かにぶつける悪である。
私の行いが自分の良かれと思ってやった正義であるなら当然、誰かにとって巨悪である。
しかし、そんな日々で受け取ったのは極悪人というレッテルだけではなくて。
私は「そうある事」を認めざるを得ない。
――こうして、皮肉にも私は英雄として崇められる事となった。