第130話 ただいま
「つ~かまえた♪」
背後から伸ばされた腕が腋の下を通り胸の前で交差する。背後に居る女性は興奮しているのか、首筋にかかる吐息が荒い。懐かしい匂いが鼻腔をくすぐり、暖かな感触が後頭部に押し付けられた。
「だ~れだ?」
相手の心音が後頭部越しに伝わってくる。温かな鼓動を感じているはずなのに、両手両足が震えだし言葉が出なくなった。
そっと目を瞑って成り行きに任せる事にする。
「何で目を瞑ってるのよ!」
「痛い! イタイイタイ、取れる! ごめんなさい!」
胸の前で交差していた手がボクの両胸をわしずかみにして、力いっぱい揉みしだき始める。
「私の名前を言ってごらんなさい!」
「クリスティナ=ヘルヴォル皇女でんギャァー!?」
名前を言うとクリスの両手が服の脇から滑り込み下腹部とお尻をなで始めた。
「ちょっと――せめてキャー、くらいにしときなさいよね? もう一度、名前を言ってごらんなさい?」
フルネームで呼んだ事を怒っているのか、次は無いとでも言いたげにお腹を擦るクリス。
「クリス、ただいま……」
「おかえりなさい、カナタ♪」
クリスは正面へ周るとボクの顔を抱えるようにして抱き締めてくる。
思えばキングビーに拉致されて、ラーズグリーズの町に戻ってからも連絡一つ取らずにずっと放置していた。悲しい思いをさせていたと思うと心が痛い。
「痛い! 痛いよ」
「大丈夫。ガーベラで色々試したから大丈夫よ!」
「何が大丈夫なの!? ガーベラさん~止めてください!」
クリスはボクを抱き締めたまま居間に寝転がり、両手両足を片手片足で極めると右手をクネクネと動かし始めた。笑みを浮かべているはずなのに目が完全に据わっている。
「お呼びでしょうかカナタ様」
「呼んで無いからあっちに行ってしまいなさい!」
ジャラジャラと鎖のすれる音を鳴らしながら人が近づく気配がした。クリスが覆い被さっているので廊下の方が見えないが、多分ガーベラがやってきたのだろう。
声を上げようと口を開けた瞬間右手で喉を絞められ、すぐに意識が怪しい感じになっていった。
「人の家で強姦殺人とか困るんだけどね~」
「バカじゃないの? 私が強姦殺人なんてするわけないじゃない」
意識が途切れる寸前、メイトの声が聞こえてクリスの手が喉から離れていく。大きく息を吸い込み意識を覚醒させると、顔を左右に振って現状を確認する。
地面に這いつくばったガーベラと目が合った。
「何ですと!?」
「コレ? コレの事は気にしなくても良いわよ?」
「お得意様にとやかく言いたく無いんだけどさー。実際そのガーベラさんは何したわけ?
前来た時はまだ……普通に側に立ってたよね? 何で地面に這いつくばってるのかな?」
心の中でナイスメイトと叫んでしまった。クリスが足蹴にしているガーベラが何故そうなったのか凄く気になる。過保護なくらい世話を焼いて、人目に見ても仲が良さそうだったのに、ボクが居ない間に何が……?
「王家のシキタリらしいわよ? 王位継承権を持つ子供に幼い頃から側仕えを付けて、成人した暁にはその力を試すとかのね!」
クリスは話しながらもガーベラの頭に白い毛皮のブーツを履いた足を添えて、グリグリと蹴飛ばしている。
話を聞いているとふとキャロラインの従者の事を思い出した。
「アレ? キャロラインの従者のガウェインも、もしかして側仕え? キャロラインも試されていたのか……」
「今何て言ったの!? ちょっと、もう一度言ってごらんなさい!」
キャロラインの名前がボクの口から出ると、クリスは唇が触れそうなくらい顔を近づけて問いかけてくる。
クリスは服の襟を掴んだ手に力を込めて泣きそうな顔になり、先ほどまで蹴飛ばしていたガーベラは完全放置でこちらに意識を向けてくる。
「ガウェインが側仕え?」
「その前後よ! キャロルは生きているのかって聞いてるの! ガウェインがあんなだったからもしかするとと思っていたけど、嘘言うと承知しないわよ!」
襟を持った手を上下に揺するクリス。ボクの後頭部がゴンゴンと音を立てて床を叩いているので止めて欲しい。
「今は色々あってルナの嫁だけど、傷一つ無く元気だよ? あ……初めは足が食べられていたけど」
「ファァッ!? ガウェインにそんな趣味があったなんて! ちょっと殺してくるから待ってなさい!」
「「!?」」
ポカーンとするボクとメイトの前で、鎖に繋がれたガーベラを引きずるようにして廊下から飛び出したクリス。慌てて追いかけると何とかガーベラの足を掴んだ。
「ギッブ、ギッブ!」
「何するのよ! カナタには、大事な妹を傷物にされた姉の気持ちなんて分からないでしょ! あいつ――全身坂剥けにしてやるわ!」
青い顔で鎖を叩くガーベラ。クリスは額に青筋を作るほど激オコでガーベラの現状に気が付いていない。
「そっちじゃないから! 足を食べたのはビックWARビーの幼虫だから!」
「そう……なの? ガーベラがあんな事しようとしてくるから……てっきりガウェインも――」
「あんな事?」
問いかけても答えは返ってこなかった。気まずそうに視線をそらすクリス。
ガーベラは引きずられていたままの格好でニヤリと笑い、両手を怪しく動かしながらこちらを見ている。
「と、取り合えず! キャロラインはどこ? 無事なのよね? ルナの嫁……?」
「まぁ、本人は元気にやってるしルナと良い感じだから大丈夫じゃない?」
「なぁなぁ、ちょっと良いかな?」
クエスチョンマークをいっぱい飛ばしながらもキャロラインの無事を知ったクリスは、ガーベラの背中の上に尻餅を付き胸を撫で下ろしている。
空気を読まずに手を上げて話し始めたメイトは、何故か両手を揉みながら卑屈な態度で笑みを浮かべていた。
「なに?」
「商談のお話し中だったんだけどさ。ちょっとカナタ返して貰える?」
「しょうだん?」
メイトの態度が露骨に変わっていた。腰が低い、そして何故かペコペコしている。
クリスはそんなメイトに一言一言力を込めて言うと苛立ち気にガーベラの後頭部へ肘を付いた。
椅子代わりになり後頭部を肘置きにされているガーベラは、我が人生に一片の悔い無し、とでも言いたげなほど満足気な笑みを浮かべて目を細めていた。
「そこに置いてあるソレ、私とカナタの故郷の調味料なんだけど……専売契約が結びたいかな~っとね?」
「カナタの故郷……? ちょっと見せなさい」
クリスは無造作に塩胡椒を取ると蓋を回し開けて中身に指を突っ込んだ。所見には蓋を開けるという発想が出なかったようだ。ペロリと指を舐めると驚いた表情になり隣にあった砂糖の袋にも指を突っ込んで中身を舐めていた。
さらに頬を緩めて指を舐めるクリスは、黒砂糖の欠片を口に放り込むと両手で頬を押さえて涙を流し始める。クリスの様子を窺っていたガーベラは何事が起きたのかと身体を曲げ、近くにあった香辛料の小瓶の蓋を開けてしまう。
「ふぁっくしゅん! 鼻が、クシュン! クシュッ!」
「この香りはガラムマサラ! カレー用のスパイスも持ってるの!? 全部出して!」
香辛料を吸い込んだガーベラは、のた打ち回りながらもクリスを振り落とさないように気を配っていた。
ガーベラがこぼした香辛料がガラムマサラだと分かったメイトの食い付きようは半端では無く、『全部出さないとどうなるか、分かっているわよね?』と耳元で囁きながら肩を揉んできた。
黒砂糖の欠片を食べている途中のクリスは我感知せずを通すつもりなのか、こちらに背を向けて幸せそうに左右に揺れている。
「まず、買い取ってくれるのは良いです。むしろ歓迎かな? 全部任せるので売り上げからいくらか委託金を出したいくらいですね」
「それじゃあ!」
「ただし! 相場が不明な物が多いので、ちゃんとした契約を結びたいです」
今にも飛びかかって来そうなほどにじり寄って来るメイトに釘を刺す。委託販売は良いが、売り上げの分配などきっちり話しを付けておかないと何をしでかすか分からない、特にクリスが……。
クリスは黒砂糖の袋を独り占めするように抱きかかえて、懐に隠そうとしているので少し怪しい。
「チェ~ック!」
「はいはい、契約書の用意は出来てるよ。魔力刻印入りの契約書だから誤魔化す事は出来ないね?」
長年連れ添ってきた夫婦の様に、阿吽の呼吸で皮製の契約書を作成していくメイトとチェック。
書かれている文字を読んで見ると、販売するメイトの取り分が売り上げの一割となっているのを発見する。
「委託金は売り上げの一割?」
「あ~……多すぎ?」
少な過ぎないかと心配して声をかけると、メイトは予想外の反応を返してくる。一応チェックの顔色も窺うが、こちらを拝んでいたのでそれなりに取っているつもりらしい。
「待ちなさい! それには私も口を出させてもらうわ!」
黒砂糖を一欠けら食べ終えたクリスが名乗りを上げる。抱えていた黒砂糖の袋は見える位置には持って居ないので、ベヒモス袋にでも直したのだろうか?
「コレは王族以外に販売を許可しないわ! 絶対だからね! この味わい深い甘味、独特の香りは高貴な者にこそ相応しいんだからね!」
どうやら黒砂糖が大変お気に召したようだ。先ほどまでボクを押し倒そうとしていた強暴なクリスや、キャロラインの身を案じていた優しい姉とはまた違う一面を見てしまう。
チェックが素早く契約書に追記して、書き上げた書類を手渡してくれた。
「ふむふむ、メイトとチェックの取り分は変わらず一割。クリスが専売権を主張する黒砂糖に関しては全て王族が販売? すると言う事で、特に問題無いかな?」
「あと、クリス様には後ろ盾になって頂きたく思います」
「ふ~ん? まぁ、それくらいなら良いわよ?」
チェックはしっかりクリスの言質を取り、小さくガッツポーズと取っていた。
塩胡椒と香辛料の価値がどれほどの物になるか……メイトとチェックが二人揃ってソワソワしている所を見ると凄いのかもしれない。
名前を書く欄を指差し勧められたので、手渡された羽ペンで名前を書く事にする。
クリスとメイトの署名も入った契約書は、チェックが魔法の言葉を唱えると白い一枚の板になり改竄できなくなった。
「ふぅ……これで寝ててもお金が稼げる! 好きな事して生活していけるよ!」
「ブツの供給をお忘れなく♪ カナタ様とは今後とも良い信頼関係を築けたら幸いです」
メイトの揉み手が早くなる、さすが商売人と言ったところか腰が低い。
今のうちに店を出ようと後ずさっていると、クリスと目が合ってしまう。
「さてと、もう良いわよね? 私の屋敷に行くから。ガーベラ、仕度なさい」
「はい、お嬢様……」
何事も無かったように横をすれ違ったクリスとガーベラを見送ると、現在持っているだけの商品を廊下に並べて一息吐く。
「ふぅ……」
「カナタ! 早く来なさい!」
「はぃっ!」
番台の前で90度の角度のお辞儀をしているメイトとチェックに手を振ると、入り口からこちらを睨み付けるクリスの元へと走り寄る。
店から出ると、黒鉄杉材で作られた堅牢な馬車が待機していた。馬車にはどこかで見た事のあるエンブレムが。
ちなみに馬車を引いているのは金色の巨大な狼だ。
「何してるのよ。早く乗りなさい」
「うん、クリスの屋敷って遠いの?」
「見えてるわよ?」
クリスが指差した先には王城と思われる建物があった。王城の近くに建ててあるのかな?
取り合えず納得して頷いていると、クリスが首を傾げながら肩を叩いてくる。
「オストモーエアの砦が私の屋敷なんだからね? 王城ならもっと、も~っと大陸の中央にあるわよ?」
「ふ~ん……んぁ? 砦って、あのお城の事?」
「そうだけど……そんなに大きく無いけど、お風呂は自慢できるわよ!」
開いた口が閉まらない、クリスが指差した先にある城は、彼方の森の崖の上から見た王城。
誰かが王族が住んでいる城とか言ってた気がする?
「もしかして、兄や姉も自分の城持ってるの?」
「当たり前じゃない……持ってないとどこに住むわけ?」
クリスとボクの常識には差異があった。背中を押されて馬車に乗り込むと、されるがままに席に座る。
「この街って――オストモーエアってクリスが住んでる街なの?」
「さっきから、何当たり前の事言ってるの? カナタ変よ?」
どうやら変なのはボクの方らしい。クスクスと笑いながら黒い服を手渡してくるクリス。
「屋敷に着くまでに準備しないといけないわね。その服の上からで良いわ。着て頂戴」
「うん……ん?」
次々と渡される服や装飾品。隣ではクリスがドレスに着替えている。ジーっと見とれているとガーベラが『オホンッ!』と大きく咳きをして睨んできたので、自分の着替えを済ませる事にする。
「フリフリがいっぱい付いた黒服? コレどこかで見た事があるような……?」
「ふっふふ~♪ ふふふっ~♪」
ご機嫌に鼻歌を歌いながら着替えるクリスとその世話をするガーベラ。酷い態度を取っていてもクリスにはガーベラが必要なようだ。
着替え終わった衣装は、黒い蝶ネクタイに白いシャツ黒いジャケットとズボン……タキシード?
「結構似合ってるじゃない! 長い髪はこうやって結んで背中に流すと良いわよ?」
「これってタキシード的な何かだと思うのですが……どうして屋敷に行くのに正装するの?」
クリスも着替え終わったみたいだ。こちらを向いて頷いている。ボクの質問には答えずに、クリスは首を傾げて御者席への窓を叩いた。
「なんですの? まぁ――お二人とも眼福ですの♪」
「カナタも年貢の納め時って事ですよ? これでやっと休めます~♪ 明日からは噂の洋館でマッタリ生活を~♪」
握り拳に親指を立ててこちらに見せてくるマーガレット。ロッティは目の下に色濃いくまを作りながらも、どこか吹っ切れた元気ではしゃいでいた。
ボーっと二人の姿を窓越しに見ているとクリスが『コホン』と小さく咳きをしてその場で一回足踏みをした。
「その……どう?」
「あぁ……似あってるよ」
頬を染めて真っ白なウェディングドレスっぽい衣装の裾を摘むクリスを見た瞬間、ボクは全てを理解した。
チラリと御者台への窓を見ると、三通の婚姻届がマーガレットの手に握られているのを見る。
つまり、あの時マーガレットが婚姻届として提出した三通は、マーガレットとロッティとクリスティナの三人分だったって事だろう。
マーガレットはあの時からクリスを抱き込むつもりで用意していたに違い無い。王都に着いてからロッティと姿をくらましていたのは、この為の布石を用意していたって事かな?
「カナタから求婚されるとは思ってなかったわよ? でも、時間の無かった私には神の思し召しかと思えるほどタイミングが良かったの……あのままじゃ隣の大陸のどこかの王族の元に嫁ぐはめになるところだったし」
「大丈夫、クリスの全てを受け入れるよ?」
色々手を回していたマーガレットには脱帽する。そのおかげでクリスの危機を救えたのなら何も言う事は無いだろう。
静かに抱きついてくるクリスを抱き返すと背中を撫でる。落ち着いて考えてみると棚ボタどころじゃない気がする。
ボクの背を撫でるクリスの手が背中を伝い首筋へと上がって来る、艶かしい吐息が耳の裏に吹きかけられた。
「ゴクリッ」
「ふふ、私はカナタのモノよ? カナタは私のモノだからね?」
暫くマーガレットやロッティともご無沙汰だったので生唾を飲み込んでしまった。
「あーあー、聞こえないー! お二人ともそう言う事は式の後にしてくださいー! あーあー」
ガーベラが馬車の扉を叩きながらそう言うと、クリスは顔をアプの実より真っ赤に染めて席に着き黙り込む。無言の時が暫し続く。
「いっぱい良くしてあげるからね?」
「いきなりナニ言い出すの! 恥ずかしいよ……ん?」
クリスは手を怪しく動かしながら耳元で呟く。聞いてるこちらの方が真っ赤になりそうになりながらクリスの肩に頬を寄せる。気のせいか会話に違和感があった気がする?
「マーガレットも一緒に行くんだよね? ロッティだけ戻るの?」
「「「???」」」
窓の向こう側にいる二人と隣のクリスは首を傾げている。マーガレットが居ないとナニを生やす為の魔法が使えない気がする。何かに気が付いたのか拍手を叩くクリス。
「今回は身内だけの話だからね? 男と女の関係になるのはまだ先よ?」
「???」
「グットラック♪」
クリスが言った事の意味が分からずに首を傾げると、ロッティが意味深な事を言って両手を握っていた。
話はここで終わり、と御者席の窓は閉じられる。ガーベラは不機嫌そうにそっぽを向き、クリスは窓の外を眺めながら鼻歌を歌っていた。
反対側の窓から顔を出して行く先を見ると、屋敷と言う名前には不釣合いな城が建っている。
オストモーエア……王都の一番東の街。
久しぶりに会った戦友は、いつの間にか嫁になっていた。
この後にSSを追加して5章は終わりとなります。
6章からは新世界の扉を開いたカナタが本格的に冒険を開始する……かもしれません。




