CASE9 女将:06
荒れ狂う雪が、体をあっという間に雪だらけにする。視界にあるのは闇と雪だけ。
あの誘惑するような女の声はもう聞こえない。
まさか雪女? ふと浮かんだ疑惑に総志朗は首を振った。そんな非現実な存在がいるわけがない。
吹き荒れる雪は総志朗の感覚を狂わせる。もうかまくらの位置さえわからない。目をかばうように腕をかかげ、目を凝らすと、雪の向こうに白い影がちらちらと見えた。
――いる。
確かに女がそこにいる。この雪で表情がわかるわけがないのに、笑っているのがわかる。
「こっちよ。そう……こっち」
女の声は耳元をくすぐる。その瞬間、周囲から音が消えた。轟音のような風の音も、降り注ぐ雪の音も掻き消え、時が止まったかのように静まり返る。
ゆるやかに坂になっている地面のその先に、女は立っていた。真横に飛ぶ雪で、女の姿ははっきりとは見えない。だが、確かに白い着物を着た長い黒髪の女がそこにいた。
「お前、何なんだ?! オレを呼んで、どうすんだよ?!」
消えた音のせいで、総志朗の声が響き渡る。女はくすくすと笑った。
「あんた、死ぬんでしょう?」
予想外の言葉に、総志朗は息を飲んだ。死ぬ? なぜそんな言葉が出てくるのか、わからない。
「悲しみと孤独に押しつぶされて、死ぬんでしょう? 今ここで死を選べば、残酷な現実を見なくてすむのよ。私の元へおいで。楽になれるから――」
「やめろ……」
「生きていくことに何の意味があるの? あんたには未来が見えない。生きていても、死ぬ運命……」
「やめろっ!」
女は腹の底からひねり出すような、大きな笑い声をあげる。耳障りなその笑い声に総志朗は手で耳を塞いだ。なのに、笑い声はまるで自分の体の中から聞こえてくるようで、消えやしない。
「闇が……あんたを飲み込もうとしてる。あんたも、気付いているでしょう? 飲まれたくないでしょう? 私のところにくれば、苦しまずにすむのよ」
甘い、誘惑。毒を含んだ魅惑的な声は拒否しようとしてもついうなずいてしまうような、引きずり込む優しさを伴う。
湿気を帯びた冷たい空気が、体中を覆っていた。そこに待つ暖かい部屋に飛び込んでしまいたくなる衝動が、総志朗を襲う。
だが、総志朗は全ての誘惑を断ち切るように、首を横に振った。体に降り積もった雪がふわふわと落ちてゆく。
「オレは、死ねない。奈緒を見つけるまでは、死ねないんだ」
「闇に飲まれてもいいの?」
「……オレはずっとそいつと共存してきたんだ。八年間、ずっと。もし……そいつがオレを飲み込んだとしても、それは……」
言葉を飲んで、さっと目を伏せる。真っ白な世界がずっと続いている。闇夜には光は無く、けれど、どこかに光を感じる。
「あんた、オレが『死ねって言ってるのか』って聞いた時、『私のところに来て』って言っただけだったよな? ってことは、オレは死ぬ義務なんて無いはずだ。早くあの二人を助けろよ」
女はフッと笑った後、いきなり大声で笑い出した。女の笑い声だけが山々に木霊し、いたるところから笑い声が聞こえてくる。
「面白い。なかなか肝の据わったボウヤだね。私はいつもどこか死に場所を探している子を誘ってきた。誘いに乗らない子は初めてだよ」
「死に、場所?」
「ボウヤも探しているんだろう? ここは違うようだけどねえ」
踏みしめる雪がさくりと音を立てる。総志朗はにやりと笑い、女を見据えた。
「そんなん、わかんねえけど。オレは生きてくだけだ」
「出来るのかい?」
「わかんねえよ。そんなこと」
未来は見えないものだから。そう心の中で思う。生きるのは簡単なように見えて難しく、難しいようで簡単なことだ。そして、それは死ぬということも。
「いいだろう。見逃してあげるよ」
女の長い髪が、風に舞う。吹き抜ける強い風が、天空へと昇っていくのがわかった。雪が渦を巻く。舞い上がる風で体が浮き上がってしまいそうだった。総志朗は体に力を入れ、腕で顔を覆った。
一陣の風が止むと、吹雪はビデオをスロー再生したように弱まってゆく。そして、ただしんしんと降るだけに変わっていた。
「なにが見逃してあげるだよ。あんた、遊んでるだけだろ?」
そこにいる女に呼びかける。
「ここに住んでるオヤジが言ってた。毎年何人か遭難して、そいつらが言うんだって。『雪の中で女を見た』って。それってつまり、遭難しても生きて戻ってきてるってことだろ? あんた、遭難したやつらのこと、助けてんじゃねえの?」
女は「さあねぇ」と笑い、さっと着物の袖を振った。雪がはねる。降り積もる雪がそこだけ濃度を濃くし、視界は雪だけで染まっていった。
あなたは知っていた。
自分の運命を。
どうなってゆくのか。
どうするのか。
闇の中を彷徨い、それでもいつかはどこかにたどり着けると信じてた。
陳腐で安っぽい言葉ではあっても、あなたは信じてた。
必ず、朝は来るのだと。
光は、必ず見えるのだと。