CASE8 リクルーター:08
夜風が身を切る。がたがたと震えの止まらない体を、両手でコートを押さえるようにして隠す。
怖れていることを悟られてはいけない。梨恵は強気な態度を押し通し続ける。
「白岡奈緒って子、知ってるんでしょ? どこにいるか、知ってる? 光喜が……あなたなら知ってるって言ってたんだけど」
光喜の名を口にした瞬間、相馬優喜はどこか満足そうに微笑んだ。冷徹な笑み。肌に食い込んでくる夜の冷気が、彼の笑みをさらに冷たく感じさせた。
優喜の言葉を待ち、梨恵はじっと彼を睨む。
「奈緒ちゃんね。知ってるよ」
「どこにいるの?!」
一気に体が熱を帯びた気がした。梨恵は一歩前に踏み出し、期待に満ちた目を輝かせる。生きているかもしれない。そんな期待が胸に去来する。
「兄貴は何も言ってないの?」
「兄貴?」
優喜は鼻でふっと笑い、「遊んでるね、しょうがないな」とつぶやいた。梨恵には彼の言葉の真意がわからず、眉をくっとしかめる。
「総志朗といい、君といい、彼女が生きてるって信じたいみたいだけど、その子なら殺したよ」
日常茶飯事だと言わんばかりの、何の罪悪感も悪意も感じられない言葉。あまりにさらりとした言葉に、梨恵は自分の奥歯がかちかちと鳴るのを、どこか遠くで聞いているような、意識がどこか別の場所にあるような感覚を覚える。
「え? あ……え?」
そんな間の抜けた言葉しか出てこない。
「俺があそこの川の河川敷で殺して、川に捨てた」
「な、なに、それ」
「言ってる意味がわからない? 俺が殺して、川に捨てたんだって。奈緒ちゃんはもう生きてない」
くっくっと喉を鳴らして、優喜は笑う。
息を吸う音、吐く音が耳の奥で木霊する。足に根が生えてしまったかのように梨恵は動くことさえ出来なかった。
目の前でただ楽しそうに笑う、悪魔のような男を凝視することしか出来ない。
「もう逃げられないんだよ! 総志朗も終わりなんだよ! ねえ、あんたわかってんの? 今ここにいることがどれだけ危険か。あんたも充分利用価値があるってこと、わかってる?」
ポケットに入れられていた優喜の手が、すっと前に出る。握られたナイフが闇夜にちらつく。
「な、何を言ってるの?」
「死んでくれないかな?」
喉に冷たい水を流されたようだった。わかっていたはずの身の危険を今更ながら実感する。逃げようと思うのに、体が動かない。
優喜の手が梨恵の腕をつかむ。
「奈緒ちゃんと同じように、殺してあげるよ。アハハ! ハハハハハ!」
振り上げられたナイフが夜の闇を飲み込む。黒々としたナイフの切っ先が自分に近付いてくるのを、梨恵はスローモーションを見ているような感覚で呆然と見つめる。
やけに冷静になっていた。死がすぐそこに迫っているということを、なぜだか客観的に感じ取り、梨恵は顔を伏せ、ぐっと目をつぶる。心臓の脈動を体中で感じる。
「離せ」
優喜がぼそりと言った言葉で、梨恵は閉じていた目を開いた。殺されると思ったのに、それは訪れない。
おそるおそる顔を上げると、ナイフを持った優喜の腕を掴む男の手が目に入った。
「やめろ、優喜」
鏡のようなナイフに写りこむ男の姿。エメラルドのような輝きを放つ左目が、ナイフ越しに梨恵を見つめる。
「――光喜!」
梨恵がその男の名を呼ぶと、男は優しく微笑んだ。優喜の腕を掴み、優喜を止めた男。それは光喜だったのだ。
梨恵は優喜の手を振り払って逃げようとするが、瞬時に優喜は梨恵の腕をさらに強く握りしめた。そのまま梨恵の体を引き寄せ、光喜の手を無理やりなぎ払う。
「光喜!」
光喜に救いを求め、梨恵は優喜から逃れようと身をよじる。だが、喉元にナイフが突き立てられたことに気付き、動きを止めた。
視線を強引に下にして、やっと見える刃。喉を動かせばナイフが当たるのではと不安を感じるのに、唾をごくりと飲み込んでしまい、切っ先が喉に当たり、思わず身をすくめる。
「梨恵を離せ」
「はあ? こんな女、殺してもいいじゃん」
「離せって言ってるんだ、優喜」
しばしの沈黙。身動きも取れない状況に、梨恵の背中を冷や汗が伝っていく。時折吹く風が凍りつくほど冷たい。
睨みあった状態が続いていたが、先に動いたのは光喜だった。
優喜のもとに歩み寄っていく。梨恵をつかむ優喜の手が強くなる。掴まれた腕が痛くて、梨恵は小さく悲鳴をあげた。
「梨恵を殺させるわけにはいかないんだよ。俺が惚れた女だ」
気付くと、光喜は優喜の腕を掴んでいた。血管が浮き出た力強い手が、梨恵の視界に入る。
「だから?」
優喜は小ばかにしたような口調で問いかける。その瞬間、光喜の手が優喜の手をひねり上げ、逆の手で梨恵を引っ張り出した。梨恵は前のめりに転びそうになりながら、優喜から必死で身を離す。
ごっと鈍い音が辺りに響き、梨恵は振り返った。目に映ったのは、倒れこむ優喜の姿。
光喜は振り落とした拳をそのままに、すばやく梨恵を自分の背に隠した。
頬を押さえ、うずくまっていた優喜だが、ぺっと血の混じった唾を吐き、ゆらりと立ち上がる。まるで死を知らないゾンビのようだと、梨恵は思った。
「奈緒ちゃんを、本当に殺したの?!」
「殺したよ。何度も言わせないでよ」
「どうしてよ! どうして!」
目の前に本物の死神が現れた気がした。少しずつ浸透してゆく真実が、心をどんどん蝕んでゆく。
「消すためだ」
「消す……?」
「そう。俺たちにとって、邪魔で、どうしようもなく憎い……」
優喜は地面に転がっていたナイフを手の中で弾ませながら拾う。
「同時に憎めない、あいつを消すためだ」
瞳孔の開き切った、闇を内包する瞳がかっと見開かれる。
ナイフは殺意を煌かせ、狙われた者を写しこむ。
梨恵は悲鳴をあげ、その悲鳴は、優喜にきっかけを与えた。優喜の体は一直線に光喜と梨恵に向かってくる。
静か過ぎる住宅街に、皮膚を切り裂く音が飲まれてゆく。
あなたは私を守ってくれた。
「君のことは俺が守るよ」と。そう言ってくれた言葉の通りに。
私、知りたくなかったよ。
触れずにいたかった真実は、私の心を切り裂いた。
信じたかった。
信じたい。
信じたいんだよ。