CASE8 リクルーター:03
その日、総志朗は久々に梨恵の家に泊まることになった。
パイプベッドの布団は片されていたが、それ以外は何も変わっていない部屋に、総志朗はおそるおそる入る。
この家を総志朗が出てからまだ一ヶ月もたっていない。総志朗は懐かしそうにパイプベッドや棚やテーブルを手でなぞってゆく。
「なんか変な感じ」
梨恵が紅茶を入れながら笑う。総志朗がここにいるということが、くすぐったい。
「初めて総志朗と会った時は、ふざけんな変人! って思ってたけど……いなくなったら、すごく寂しくなった。私、一人っ子だから、弟がいたらこんなかんじなのかなって。あんたはいつの間にか私の生活の一部になってたんだね」
「何を言い出すのかと思ったら。オレからすると、梨恵さんは口うるさい母ちゃんだよ」
「失礼ね! たいして歳変わらないじゃない!」
ついさっきも同じような問答をしたことを思い出し、総志朗と梨恵は同時にぶっとふきだす。一緒に暮らしていたあの頃と変わらない関係が嬉しい。
紅茶をカップに注ぎ、テーブルに置く。
「総志朗、紅茶どうぞ」
さっきまで梨恵を見ていた総志朗が、いつの間にか窓辺で外をじっと見ている。満月を見つめる狼男のようだ、と梨恵は思った。
「総志朗?」
声をかけるが、総志朗は振り返らない。不審に思った梨恵が、総志朗に近付こうかと足を踏み出そうとした時、彼はゆっくりと顔をこちらに向けた。
閉じていたまぶたが開かれてゆく。重りをつけたようなスローモーションの動き。開かれた瞳は、あの色になっていた。
覚めるようなエメラルドグリーン。左目だけが、その存在を主張するように緑色を強める。
この瞳を持つ者――それは光喜に他ならない。
「……光喜」
「久しぶりだね」
真一文字に結ばれていた口が、うっすらと笑いを帯びる。その輝くようなエメラルドの左目のせいか、冷たさを感じる瞳。
梨恵は頬が赤くなっていくのを感じる。約一ヶ月前、光喜は梨恵に言った。
――君のことは俺が守るよ。俺は、君が好きだから。
梨恵はその言葉が忘れられないでいた。
「何の用?」
顔が赤くなっているのを悟られたくない。梨恵はうつむきながら光喜をにらみつける。
光喜は緩慢な動作で梨恵に近付いてくる。だが、梨恵は一歩も動くことが出来なかった。逃げることは出来たのに。
光喜の手が梨恵の手首を掴む。びくりと体が反応し、梨恵は逃げ出したくなったのに、体は言うことを聞かない。
「白岡奈緒の行方を探してるんだろう?」
「どうしてそのことを知っているの?」
「白岡奈緒の行方は、相馬優喜がすべて知ってる」
相馬優喜。前にも聞いた名だ。
総志朗に相馬光喜を探すように依頼した人物。総志朗が「優喜は、この目を、探してたんだ」と言っていた人物。
そして、総志朗の大切なものを壊し、総志朗を壊そうとする人物。
「梨恵、優喜には気をつけろ。優喜は危険な存在だ」
「どうして、私にそんな助言をするの? 何が目的なの?」
涙が出そうになる。光喜を信じたいと思っている自分がいる。けれど、彼が信頼に足る人物だとは梨恵には思えない。何を信じたらいいのか、わからなくなる。
光喜は掴んだ手首からそっと手を離し、梨恵の耳のすぐ横辺りの頬に触れた。指の感触がまるで電流のように全身を走る。
「梨恵を失いたくない。梨恵が好きなんだ」
解けない金縛りのようだった。鋭い視線を前に、梨恵は身動きが取れない。目の前にある綺麗なエメラルドグリーンから目を離すことが出来ない。貫かれた気がした。
唇が重なる。触れるか触れないか、そんな淡いキス。
体中が心臓になったかのように、ドクンドクンと脈打つ。拒むことが出来たはずなのに、梨恵は受け入れてしまっていた。
「私のこと、本当に好きなの……?」
吸い込まれそうなほど綺麗な瞳に見入る。瞳に映る自分が見えた。不安そうでいて、嬉しそうな自分が、そこにいた。
「好きだよ。すごく」
まっすぐに、光喜はそう答える。嘘偽りないと、訴えてくる真摯な言葉。だまされてもいいとさえ思えてくる、真剣な顔つき。
何を言えばいいのかもわからなくなり、梨恵は顔をそむけようとした。それを防ごうと、光喜はまた梨恵に口付けをする。
深く長いキスは、梨恵の体から力を失わせていった。すべてを委ねてしまいたくなる甘い香りが、とても近くから漂ってくる。
唇から、首筋へ。光喜の手が、梨恵の服に触れた。
その瞬間、梨恵ははっと我に返る。
「だっ……だめだよっ!」
体をひねり、光喜の手を振り払う。胸元を押さえ、梨恵はすばやく後ずさった。
「なんで? 梨恵は俺のこと、好きじゃないの?」
「わ、わからない……。だって、あなたは総志朗だわ」
「俺は総志朗じゃない」
一瞬見せた光喜の寂しそうな顔。まるで捨てられた子犬のような目だった。
「そうだけど、そうだけど……。でも、私、わからない。自分の気持ちがわからないの……」
「俺は梨恵が好きだよ。たとえ、梨恵が俺を好きじゃなくても」
そう言って、光喜はソファーに腰を下ろした。腕を組み、うなだれる。
梨恵はどんどん高くなってゆく心臓の音を鎮めようと、何度も深呼吸する。
「光喜、私……」
「いいよ。答えを無理に出す必要はない。俺はもう寝るよ」
ソファーに身を預け、彼は目をつぶる。彼の静かな吐息だけが、聞こえてきた。本当に寝てしまったようだ。
梨恵はほっとして、椅子に座った。まだ熱を帯びる頬に触れ、唇に触れる。脳内もきっと熱くなってしまった。何も考えられない。
ぎゅっと目をつぶり、熱が冷めてゆくのを待つ。
やばい、と思う。体が、光喜を拒まない。
好きになってるってこと? わからない……
抑えきれない感情がどこからか湧きあがって来る気がして、梨恵は唇を噛み締めた。
この恋。
私はあなたの瞳に惹きこまれた。
憂いをもったあなたの瞳。
本当は、何を映していたの?
何を思っていたの?
あなたは、今、どうしているの?