A current scene7 彼女との対峙
題名に「A current scene」とつくものは、現在(梨恵26歳)のストーリーです。
鍵を開けると埃っぽい空気が鼻をついた。
ここに訪れたのは何年ぶりだろう。最後にここの鍵を閉めたのは、いつだったろう。
四年を歳月を経て、梨恵はこの場所にまた訪れる決意を固めた。たくさんの思い出がつまったこの場所は、たくさんの思い出がつまっているがゆえに、哀しい記憶がつもった場所になってしまった。
建てつけの悪くなってしまったドアがぎぃと軋んだ音をたてる。
「懐かしい……」
埃が積もった室内は、あの頃とは違う。いや、すべてあの頃のままなのに、薄い曇りガラスを取り付けたかのように、淀んだ色を持つ部屋になってしまっていた。
だが、梨恵の目にはあの頃のまま鮮明に映る。総志朗と過ごした日々とともに。
梨恵は、総志朗と同居していた祖父の家にやって来ていた。
先日、遭遇した総志朗。車で浩人を連れ出し、動物園へと連れて行った。おそらく彼は総志朗だ。梨恵は、もう一度総志朗に会わなければと強く感じていた。
会わなければ。会って話したい。
もしかしたら、総志朗はこの家に来ているかもしれない。淡い期待が祖父の家へと梨恵の足を運ばせていた。
家の中へ入る。靴を脱ぎ、埃がたまった床に足をつけると、床に自分の足跡が残る。掃除をしなければ、と足の裏を眺めながら、梨恵は眉を寄せた。黒いタイツの足裏が、真っ白になってしまった。
玄関から廊下を進み、リビングダイニングへのドアに手をかけた。元・総志朗の部屋だ。都合良く総志朗がいるわけがない。そう思いつつも、梨恵は期待を消すことが出来ない。
ドアノブは幾分か重くなっているような気がした。黒板を爪で擦った時のような音をたて、ドアを開ける。
カーテンの揺れる音がした。
ドアの向こうで、風が吹く。開け放ったドアの真正面にある窓が開けられ、カーテンがゆらゆらとはためいていた。
誰も住んでいない家。窓が開いているわけがない。泥棒が入ったのかと思ったが、それにしては荒らされた形跡は無かった。
「もしかして、梨恵さん?」
梨恵のいるドアの右側にあるキッチンから、女の声。まさかこんな誰もいないはずの場所で声をかけられるとは思っていなかった梨恵は、びくりと肩を震わせた。
「梨恵さんでしょ? 初めまして!」
キッチンから顔を出したその少女は、腰に届きそうな長い髪を揺らして、梨恵に笑いかけてくる。タレ目がちなくるりと大きな瞳。ぷっくりとしたたらこ唇気味の口。きれいなミルクティ色の髪が、ふわりふわりと風にそよぐ。
どこかで見たことがある顔だった。
「奈緒ちゃん……」
すぐ脳裏に浮かんだ顔は、総志朗のセックスフレンド、奈緒だった。今、目の前で笑っている少女は、奈緒によく似ていたのだ。
「奈緒? 誰それ? あたしは関谷唯子だよ。ユキオのか・の・じょ」
唯子はジーパンに突っ込んでいた手を出し、首に巻いた大判のマフラーをいじる。奈緒によく似ているが、確かに別人だ。奈緒よりもはっきりした顔立ちをしていたし、奈緒の甘えた高い声ではない。少しハスキーな声をしていた。
「ユキオ……?!」
「ユキオ、知ってるでしょ?」
「どういうこと……」
声が震える。
ユキオ。総志朗の中にいた、あの人格。ユキオの彼女が目の前にいるということが、何を意味するのか、梨恵は嫌悪にまみれた答えを出したくなくて、唯子から目線をはずした。
「梨恵さんのことも、ユキオから聞いてるよ。明や統吾や、光喜からも」
「あなたは! ユキオが何してるか知ってるの?!」
ふとよみがえる、ユキオの目。氷のような冷たい瞳。ドライアイスのように、触れることさえままならない、ユキオという男。その男のそばに、この女はいたというのか。
「ユキオが何してるか? 知ってるに決まってるじゃん。だから東京にいるんだよ」
「あの事件は、やっぱりユキオが犯人なの?」
あの事件。香塚病院の従業員を狙った事件。すでに三人の犠牲者が出たその事件は、目撃情報はあるものの有力な手がかりも無く、捜査は難航を究めている。
「あたしがユキオが犯人です、なんていうわけないっしょ。ユキオが警察に捕まるなんて死んでも嫌だし」
唯子はけらけらと笑って、手を振る。殺人事件を起こしているというのに、その重大さをわかっていないようだった。
「警察に捕まるのが嫌なら、止めるべきでしょう?! どうして放っておくの?! 彼がこのまま犯罪を犯し続けてもいいの?!」
「それがユキオの望みだもん。あたしはユキオの苦しみがわかる。だから、止めない」
「そんな!」
唯子の目が、ぎっと梨恵を睨みつける。梨恵はぞっとして、言いかけた言葉を飲み込んだ。 全ての情を知らない、歪んだ瞳。梨恵はこんな目をした男を知っていた。
「あんただって、わかってるでしょ? 光喜やユキオが、なぜお互いを牽制しあい、憎しみあっていたか。結局あいつらはひとつの目的のために合意した。止めることが出来んの? 誰が止められんの? ブレーキの無い車は、誰にも止めることなんて出来ないんだよ」
反論する言葉が見つからず、梨恵は震える息を吐き出した。
そんなことはわかっている。わかっているけれど。
「あたし、あんたに会ってみたかったんだよね。ほんと、美人さんだね。ねえ、なんでユキオはあんたを嫌ってんの?」
寝耳に水の話だ。ユキオが自分を嫌っている?
「でも、わかる気がするな。あんたまっすぐそう。すごく。ユキオにはキツイかもね」
「……意味がわからないわ」
唯子は歯を出して笑って見せると、「会えてよかった。もう帰るよ」と手を振って行ってしまった。
梨恵は引き止めることも出来ず、呆然と唯子の後姿を見据える。
ユキオがここにいる。それは、総志朗がここにいるということも示している。ユキオは、総志朗の中にいた、あの凶悪な人格なのだから。
彼らが選んだ道。
その道を選ぶために出した、犠牲。
たった一つの思いが、彼らを突き動かした。
決して揺るぎない、彼らの思い。
私には、どうすることも出来なかった。