CASE7 ストーカー:05
最近人気の芸人が声を張り上げてリズムに乗ったコントを繰り広げるのを、梨恵は大笑いで見ていた。せんべいを食べ、ジュースを飲む。太るかな? と一瞬考えるが、食欲が勝ってしまう。
「梨恵さん! 開けろ!」
テレビの音よりも大きい怒鳴り声。梨恵は驚いて、せんべいを落としてしまった。
「何よ……誰?」
「梨恵さん!」
「総志朗?!」
この声は総志朗だ。焦りを含んだ声色が、玄関の向こうから聞こえてくる。何かあったのかと思うと同時に、こんな時間に怒鳴り声を出す総志朗に軽く怒りを覚える。
「鍵、あげたでしょ! 勝手に上がっていいから!」
総志朗の声に負けじと大声でそう言ってから、近所迷惑だったかと口を塞ぐ。しばらくの間のあと、ドアの開いた音がした。
梨恵は椅子から立ち上がり、総志朗を迎え撃つ準備をする。どう怒鳴り散らしてやろうかと考えていると、総志朗が部屋に入ってきた。
「家の外で大声出さないでよ!」
「悪い」
真冬だというのに、額に汗をかいた総志朗。眉間には深いしわが寄せられ、唇を噛み締めている。
「どうしたの?」
そう聞きたくもなる。総志朗がひどくあせっているのが一目でわかった。
「奈緒、行方不明なんだ。何か知らねえか?」
「え? 行方不明って? 私、この前会った……」
「どこで!」
総志朗が勢いよく梨恵の肩をつかむ。梨恵は戸惑いながら、「渋谷駅」と答えた。
「その後、どこに行くって言ってた?!」
「ナ、ナンパしてきた子と遊ぶって……どこに行くとかは聞いてない」
「他には、他には何か知らないか?」
拝むように梨恵を見る。梨恵はあの日の奈緒の笑顔を思い出していた。明るく笑っていた。奈緒の身に一体何が起こったというのか。
「総志朗、ちゃんと話して! どうしたの? 奈緒ちゃん、どうしたの?!」
総志朗の両頬を両手でつかみ、にらみつける。総志朗は唇をかすかに震わせ、ため息をついた。
「ごめん」
「いいから。座って。コーヒーでも入れるわ」
テレビの電源を切ると、室内はしんと静まり返る。総志朗は素直に椅子に座り、テーブルの上に突っ伏した。
コーヒーをマグカップに注ぐ。部屋中を包み込むコーヒーの香りが、先ほどまでの喧騒を一気に沈めていくような気がした。
「何があったの?」
マグカップを総志朗の手元に置く。総志朗は顔を上げ、梨恵をじっと見つめる。
「奈緒が、いなくなった」
「家にも?」
「ああ。どこにもいない」
マグカップをつかんだまま、総志朗はコーヒーに手をつけようともしない。一見、落ち着いたかのように見えたが、カップを持つ手が、わずかに震えていた。
「……たぶん、オレのせいだ」
「どうして?」
「黒岩さんに何度も言われてた。人と深く関わるなって。いつか犠牲が出るって。オレは」
ふと視線を上げた総志朗の目に、梨恵は釘付けになる。絶望に満ちた、哀しい目。見てはいけないものを見た気がした。
「オレは、わかってた。わかってたんだ。だけど、怖かった。独りになるのが、怖かったんだ……」
「総志朗……」
いつも飄々として、のん気でのんびりしているように見えた総志朗。けれど、時折見えた寂しげな影。凛とした立ち姿の裏にあった、切なさ。それがこれだったのかと、梨恵は気付く。
「でも。犠牲って、どういうこと?」
――総志朗がここを出て行ったのは、あんたを巻き込みたくないからだ。
いつかの光喜の言葉が脳裏をよぎる。彼は警告していた。あの、総志朗がこの家から出て行った次の日に。
――総志朗のそばにいて、総志朗にとって大切なものになればなるほどに、優喜はその大切なものを壊し、総志朗を壊すんだ。
「犠牲……」
冷や汗がじんわりを溢れ出てくる。『優喜』という名の人物が、総志朗を狙っている。光喜や優喜の狙いは一体なんなのか? 光喜の言うことが本当なら、奈緒は『優喜』によって壊されたのかもしれない。
「そ、そんなこと、あるわけない! そうよ……そんなわけない。総志朗、探そう。奈緒ちゃんを探そうよ。きっと、どこかにいるわ。ね、総志朗。ね?」
総志朗の手をそっと握りしめる。総志朗を励ますことで、行き着いてしまった最悪の結果を脳内からかき消そうとする。だが、込み上げてくる不安は消えようとはしない。
梨恵は必死に笑顔を作った。不安な顔をすれば、総志朗にもそれが伝染する。今の総志朗に必要なのは、不安を殺す材料だ。だから、励ますしかない。
「そうだよな……。探さなきゃ」
「そうよ。総志朗、私も探すから。大丈夫よ。大丈夫」
弱々しいながらも、総志朗も笑った。梨恵の手に一度触れて、ぎゅっと目をつぶる。
「ありがとう」
「ううん」
胸の内に広がる不安。不吉な予感は消えるどころか、どんどん心を侵食してゆく。奈緒のこともそうだが、今の総志朗の姿にも。
今にも消え入りそうな、総志朗の笑顔。
奈緒ちゃんが言ってたとおり……。誰かがそばにいてあげなきゃ、総志朗、消えちゃう。
梨恵は自分の考えにぞっとして、総志朗の手の温もりを確かめる。ちゃんとここにいる。支えてあげなければ、梨恵は密かに決意を固めていた。
私、あなたを支えてあげるつもりだった。
おこがましい考えだったのは、わかってる。
でも、あの時は本当にそう思っていたの。
本当だよ。
本当なんだよ。