CASE6 いじめられっ子:08
昨晩降った雪は夜のうちに止んでいた。それでも積もった雪を、シャベルでかいている人々の間をくぐりぬけ、総志朗は一軒の家を訪れた。
ミルの飼い主、谷川結衣の家だ。
チャイムを鳴らすが、人が出てくる気配は無い。
「留守かな」
もう一度鳴らすが、やはり人が出てきそうにない。
「しょうがない。また来るか」
抱いていたミルにそう話しかけると、ミルは「くーん」と鼻を鳴らした。
ミルの頭をわしわしとなで、玄関先をあとにしようとした時だった。ミルがけたたましく鳴きだしたのだ。
「なんだよ。どうした?」
今まで寂しげな表情をしていたミルが、ものすごく嬉しそうな顔をしている。しっぽを千切れんばかりにふって、玄関先に視線を送っている。
玄関の鍵が、かちりと開く音がした。
「ミルちゃん?!」
玄関から出てきたのは、髪の毛をふたつに結わえた、幼稚園か小学校入りたてくらいの小さな女の子。
ミルは総志朗の腕から身を乗り出し、その少女の方へと行きたがっている。
「ええと、ミルの飼い主?」
「はいっ! 谷川美香! 六歳です! おにいちゃん、ミルのこと見つけてくれたの?」
「そうだけど……もしかして、今、家に美香ちゃん一人?」
「うん。お留守番してたの。本当はママに誰か来ても出るなって言われてたんだけど、ミルの声が聞こえたから……。おにいちゃん、このこと、ママにはないしょにしてね」
人差し指を唇にあて、総志朗を見つめる美香。しっかりとしたしゃべり方にほんの少し感心しつつ、ふとした不安がよぎる。
「お母さん、いつ帰ってくる?」
「ん〜? わかんない!」
不安的中の予感。こんな子どもに話が通じるだろうか。
「あのさあ、オレ、このチラシ見て、ミルを探してきたんだよね。で、礼金ってわかる?」
電柱に貼ってあった、『ミルを見つけたら連絡下さい。見つけてくれた方には礼金差し上げます。谷川結衣』と書かれたポスターを広げる。
谷川結衣という人物は、おそらく美香の母親だろう。
美香はまじまじとポスターを見ていたが、首をかしげるだけだった。
「レイキンってなあに? ぞーきんのなかま?」
あほかっ! と突っ込みたいが、相手は子どもだ。ぐっと我慢して、美香の目線と合うように、腰を下ろした。
「お金のことだよ。オレ、それが欲しいんだけど、お母さんから話聞いてる?」
聞くだけ無駄だとは思いつつ、どうしても引き下がれない。金が欲しい。
だが、無情にも美香はぶんぶんと勢いよく首を横に振った。
「しょうがない。出直すか……」
本音を言うと、今日中にお金が欲しかった。ストーブの灯油がきれてしまったのだ。お金が無いと、今晩は極寒の中眠らなければいけなくなる。
「じゃあ、また来るよ。おかあさんによろしく伝えといて」
そう言って、総志朗は立ち上がろうと膝に手を置いた。その手に美香の手が触れた。
「ミルを見つけてくれたお礼なら、わたしがあげる。ちょっと待ってて!」
くるりと総志朗に背を向けて、美香は家の中に戻っていく。美香の二本に結わえた髪の毛がばしばしと総志朗の顔面をかすめていったために、総志朗は顔を手で覆った。髪の毛が目に入った。痛い。
今日は厄日だ……絶対。
美香がにこにこ笑顔で戻ってくるが、その天使の笑顔さえ、今の総志朗には悪魔の笑顔にしか見えない。
子どもに大人気のネコのマスコットがついたビニール製がま口財布を、美香は差し出してきた。
「ええと」
嫌な予感がする。美香は笑顔で、総志朗が財布を取るのを待っているではないか。
「ミルを見つけてくれてありがとう! お礼だよ!」
悪魔が笑う。かわいい笑顔だ。総志朗は苦笑いをさらにひきつらせて、財布を受け取った。どう考えても、たいした金額も入らない手の平サイズの小さな財布だ。
「あのさ、美香ちゃんみたいに小さな子からお金はもらえないよ。また今度来るからさ」
「わたしの気持ち、うけとめてくれないの?」
どこでそんなセリフを覚えたのか。小首をかしげながら、芝居風なセリフを吐く姿は、いっちょ前に大人びている。子どもは得てして大人の真似事をするものだ。総志朗はぶっとふきだしそうになるのをこらえて、財布を開けた。
「ありがとう。お礼はもらっておくよ。またなんかあったら、ここに電話して」
財布と一緒に名刺を渡すと、美香は名刺を眺めながら、読めるひらがなだけをぽつぽつと口に出している。
「じゃあ、オレはこれで。またね」
美香にミルを渡して、総志朗は歩き出した。きゃんきゃん鳴くミルの声と、「ありがとね〜」というのん気な美香の声に見送られ、総志朗は歩く。
「あんなに探して、礼金がこれだけとはね」
まあいいか、と独りごちて、手に持ったお金をピンっと弾ませる。太陽の光を受けて、きらきらと赤銅色に光る。美香の財布には十円玉が五枚しか入っていなかった。もらわないわけにもいかず、たった一枚だけ、そこから取って来たのだ。
総志朗の話を信じきって、懸命にミルを探していた奈緒の姿を思い出し、笑みがこぼれる。
奈緒がかわいく思えて、しかたなかった。
奈緒ちゃんは、あなたが大好きだった。
あなたも、奈緒ちゃんのことをきっと好きだったよね。
あの日、あなたが流した涙。
それを見た時、私はあなたを守らなければと思った。
なのに。
私は自分のエゴで、あなたを突き放したのだ。