CASE6 いじめられっ子:07
「着てるやつ脱いで、これにくるまれ」
総志朗に手渡された毛布を両手で抱きしめながら、奈緒はあたりを見渡した。
川に入ったためにびしょぬれになった奈緒。家に戻ろうと思ったが、総志朗の住むこの場所の方が近かったため、ここにやって来た。びしょぬれで自分の家まで行くのもさすがに気がひけた。ご近所の目というものは意外と怖いのだ。
二階建ての廃ビル。二階の八畳ほどの部屋に、総志朗は勝手に住み着いているのだという。中の綿がはみ出たソファーに、石油ストーブしかない殺風景な部屋。最近住み始めたらしく、生活に必要なものや服はまだ持ってきていないらしい。
「なにぼーっとしてんの? そのままじゃ風邪ひくぞ」
連れて来たミルは、ストーブの目の前までとことこと歩き、丸くなって寝ようとしている。奈緒は暖かそうなストーブのオレンジ色の光に見とれていたが、はっとして総志朗に目線を向けた。
「っていうかさ、こんなとこに住んでるの?」
「悪い?」
「悪くはないけど……。お父さんとか、お母さんとかは?」
一緒に住んでいないの? そう聞こうとして、奈緒は押し黙る。総志朗から、『聞かれたくない』というオーラがにじみ出ていたのだ。
「そんなこと、どうでもいいだろ? 早く服脱いで、毛布くるまれ。風邪ひくだろ」
「え?! ふふふふふふふふ服、ぬぬぬぬぬぬぬ脱ぐの?!」
奈緒は恥ずかしさで顔を真っ赤にしながら、びしょぬれの洋服をつかむ。そんな奈緒をあきれた目で見つめながら、総志朗は大きなため息をついた。
「見りゃわかるだろ? 服置いてねんだよ。貸す服無いの。びしょびしょの服いつまでも着てるわけにはいかないだろ? とにかく脱げ」
「そ、総ちゃんのエッチ!」
「あほかっ! お前みたいながきんちょの裸になんて興味ねえよ!」
そう言って、総志朗は部屋から出て行こうとする。奈緒は総志朗の服の袖を必死につかんだ。
「ごめんなさい! 怒った?」
「……そうじゃなくて。服脱ぐの、見てていいわけ?」
「だめ」
「だから、外出るんだよ」
手をひらひらとふって、総志朗は行ってしまった。
十七歳の総志朗にとって、まだ幼い十五歳の自分は、まだまだお子様なのだろう。たった二つしか違わなくても、高校生の年頃の男と、中学生の自分とでは大きな隔たりがある。
奈緒はそれを実感して、悲しくなった。
冬は日の入りが早い。沈んでゆく夕日と迫り来る夜の間の紫色をした不思議な空が、廃ビルの窓から見える。
ほかほかの毛布に包まり、体はだいぶ温かい。ストーブの横で寝入っているミルをなでる。ミルの毛はすっかり乾いていた。
「ねえ、総ちゃん」
「んー?」
ソファーに寝転がっている総志朗は、今にも寝入りそうなくぐもった声で返事をした。
ストーブのおかげで室内は春の陽気のようだ。
「あたし、強くなるって決めた。ずっと亜衣子におびえてたけど、もう負けない」
「強くなろう強くなろうって、思わなくてもいいんだ。誰だって、弱いところもあれば、強いところもある。それを発揮できるかどうかが、大事なんだ。程々でいいんだよ。頑張る時は頑張って、それ以外は頑張らなくていい」
眠いためなのか、総志朗の口調は柔らかく、優しい。
ストーブのオレンジ色の光が、空間を優しくしていた。
「心さえ負けてなけりゃ、逃げていいんだ」
「心さえ……」
気持ち良さそうに寝ているミルを見つめる。川に飛び込んだミルの姿が心に浮かんだ。
「奈緒、高校変えれば?」
「え?」
「今からでも遅くはないだろ? 二次募集とかあるんだし。無理して亜衣子と同じ高校に行く必要なんてないんだ。亜衣子のいないところで、新しくやり直せよ。無理すんな」
その言葉を、待っていたのかもしれない。奈緒はそう思った。
周りはいつも「頑張れ」と言う。頑張って通った学校。それでも続いたいじめ。耐え抜いた三年間。頑張ってきた。だから、もう限界を感じていた。
ずっと「無理をするな」と言ってほしかったのだ。そんなことに、今初めて気付く。
「総ちゃんは、優しいね……」
ミルの頭をそっと一度なでて、奈緒は立ち上がった。毛布をひきずり、総志朗の寝転がるソファーの正面に立つ。
眠りかけていたのだろう。奈緒の気配に気付いた総志朗は閉じた目を開けて、ソファーに座り直した。ぎしり、ときしんだ音がした。
「あたし、総ちゃんが好き。彼女にして?」
総志朗の喉が動いたのがわかった。そっと目線を上げた総志朗の目は、切なさをたたえ、ストーブのオレンジ色の光を照らしている。
あまりに悲しげな表情に、奈緒の方が泣きたくなってきた。こんな眼をどこかで見たことがある、奈緒はそう思った。
「オレ、彼女はつくらないんだ。これからも、ずっと」
はっとする。総志朗のこの眼。鏡の向こうで見た奈緒自身の眼に似ているのだと、気付いた。いじめでつらかった時、親に話しても理解はしてもらえなかった。その時に襲ってきた大きな孤独感。その時に見た孤独に満ちた悲しい自分の眼。それと同じ眼を、総志朗がしていた。
「じゃあ、彼女じゃなくていいから、そばにいさせて?」
変わらないその眼で奈緒をじっと見つめながら、総志朗は答えた。
「奈緒。オレは、そばに誰も置きたくない。置けないんだ。ごめん」
奈緒の頬を大粒の涙が零れ落ちる。ふられたからではない。彼の抱えた孤独感を、奈緒は覗き見てしまった。あまりの大きさに、涙がこられきれなかった。
「ごめん。奈緒。泣かないでくれ……」
「違うの。総ちゃん、違うよ。総ちゃん、悲しそうなんだもん。ひとりぼっちで寂しいって言ってるみたいに聞こえたんだもん」
窓の外では、雪がちらちらと降り始めていた。
あなたが恐れていたもの。
あなたの中に眠る、恐怖。
それが目覚めるために、為そうとすること。
あなたが守りたかったもの。
そして、欲しかったもの。
私は、怖くないよ。
私は、平気だよ。