CASE6 いじめられっ子:06
「着替えなくていいの?」
「うん。平気」
尻の部分がじっとりと冷たい。けれど、服は思ったより汚れていなかったので、奈緒はそのままミル探しを続行することにした。
「じゃ、オレはあっち探すよ。奈緒はあっちね」
総志朗の指差す方向には、小さな川が流れている。コンクリで固められたお堀のような川には、何本かの小さな橋がかかっている。のぞきこむと、よどんだ汚い水が流れていた。
奈緒は橋を渡り、川の脇の歩道を歩く。
「ミルー! いい加減出てきてよぅ」
朝からずっと歩き回っているのだ。さすがに疲れてきて、声を出すにも腹に力が出ない。時計を見ると、もうすぐ10時になろうとしていた。
「お腹すいた……」
朝食はあまり食べていない。腹の虫がぐうぐうと主張を始めている。足は棒のようだし、いったん総志朗の元へ戻ろうかと、奈緒は踵を返した。
その時だった。犬の鳴き声がどこからか聞こえてきたのだ。甲高く耳に痛い犬の声だ。
「どこ?」
あたりをきょろきょろするが、犬は見当たらない。だが、低くうなる別の犬の声も聞こえてくる。
奈緒はじっと目と耳をすませ、声の出所を探る。何本も渡る橋のひとつに、奈緒はやっとそれを発見した。
石造りの橋の上に、茶と白のぶち模様の中型犬と、茶色のふさふさした毛並みの小型犬が向き合う形で吠えあっていたのだ。
だが、どう見ても、小型犬のほうが形勢は不利のようだ。橋の欄干の下に追い詰められ、しっぽを股の下にしまいこんで、それでもなんとか吠えている。
奈緒は慌てて、二匹の犬の元へと向かう。
近くで見ると、小型犬は赤いリボンをしているのがわかった。ミルで間違いない。
「ミル! 今助けるから!」
そう言ってはみたものの、ぶちの犬は凶悪そうな顔をしている。むき出した歯は茶色く薄汚れていて、よだれが滴っている。怖くて近寄れそうもない。
何か武器は無いか探そうと、奈緒は視線を泳がせるが、ずらりと並ぶ民家にそんなものは何ひとつなさそうだ。
「ミルゥ! どうしよう〜」
ミルがあと一歩でも後ろに下がれば、冷たい川に落ちてしまう。雪が降った後の川だ。どんなに冷たいか、想像するだけでぞっとする。
武器は無い。だが、助けなければミルは冷たい川に落ちる。決断するしかない。奈緒は捨て身で犬につかみかかる覚悟を決めた。
「今行くからね!」
走り出そうとしたその時。川の水が、跳ね上がった。ミルククラウンのような王冠状のしぶきだった。
「う、うそ」
川の中から、必死でもがく一匹の犬が浮上してくる。覚えたての犬掻きを必死で練習しているような、今にも溺れてしまいそうなミルが、そこにいた。ゆるやかな流れで、ミルは少しずつ流されてゆく。
そのミルに向かって、ぶち犬は未だに吠え立てていたが、ミルが流れていってしまうのを見て勝利を確信したのか、吠えるのをやめ、行ってしまった。
「ちょ、どうしよう」
前足をばたつかせ、鼻先をなんとか水面に出している。あと少ししたら死んでしまうだろう。
「総ちゃん! 総ちゃん! 助けて!」
総志朗に助けを求めても、総志朗の姿はどこにも見えない。助けられるのは、今、この場に自分しかいない。
「あたしが、助けるんだ」
あの日。自殺しようとしたあの日、その手を取ってくれたのは、総志朗の熱い手だった。止めてくれたのは、生かしてくれたのは、彼だった。
自分も誰かを助けたい。あの日、彼が救ってくれたように。奈緒の胸に溢れたのは、そんな気持ちだった。
コンクリをそろそろと降りて、川に足をつける。
針で刺すように冷たい川の水が、びりびりと全身を貫く。それでも奈緒は川の中に侵入していった。
思っていたよりも川は浅く、腰の下までが水の中へと沈む。下半身のみが川に入っているだけなのに、まるで全身浸かってしまったかのように、体がどんどん冷えてゆく。
「ミル! おいで!」
ミルに手をのばす。溺れる寸前のミルが、藁にもすがるような面持ちで奈緒の手の方へと、泳いでくる。
「頑張って!」
奈緒はそう叫びながら、自身も一歩一歩ミルの元へ進んでゆく。
力強く、踏みしめながら、思い浮かぶのは、総志朗の顔。
ふてぶてしさを持て、と彼は言った。したたかさを身につけろと。
したたかさ――強かさ。強くなれ、と彼は言ったのだ。
「もう少し!」
自分が弱いことを否定してきた。けれど、その裏腹に、自分が弱いということを盾にしてきた。弱いからこそいじめられる。そう決め付けることで、自分を守っていた。悲劇のヒロインをきどって、己の弱さに酔いしれていた。心の中でいつでも出番を待っていた、強い自分を押さえ込み、弱い自分を溺愛していた。そんな自分が大嫌いだった。
強い心を持っていたことを、忘れていた。
「あたし、負けないもん!」
ミルに伸ばした手が、ミルの毛に触れた。奈緒は勢いよく体を動かし、ミルの体をそのままつかみ、抱き上げる。
「捕まえた……」
ふさふさの毛からはわからない、細い体を強く抱きしめる。ミルはブルブルと震えながらも、盛んにしっぽを振っていた。
こんな小さいのに、あんな怖い犬と戦っていた。たとえ逃げたのだとしても、それも勇気のいる行為だった。待ち受けていたのは、冷たい川なのだから。それでも、ミルは飛び込んだのだ。
「奈緒! 何してんだよ!」
橋の上から、総志朗の声が聞こえてきた。奈緒は総志朗に向かって、ミルを抱え上げる。
「総ちゃん! ミル、見つけたよ!」
あなたの言葉はいつも、私の心を貫く。
それは、あなた自身が、自身に言い聞かせている言葉だったから。
私は、あの時のあなたの言葉を、何度も何度も反芻する。
その度に、涙が込み上げるよ。
切なくて、苦しくて。