CASE6 いじめられっ子:01
「あれ、奈緒ちゃん」
「あ〜! なしえっちだあ! 久しぶり〜!」
渋谷駅前にあるカフェで、梨恵はたまたま奈緒と会った。
真冬だというのに足をこれでもかと出したショートパンツ。ニーソックスを履いているといっても、むき出しの太ももが寒そうだ。
「学校は?」
まだ13時を回っていない。本来なら学校に行っている時間だ。私服であることからサボリであることはわかっていたのだが、梨恵は一応聞いてみた。
「サボリだよん! 今日はねえ、デエトなの〜」
「総志朗と?」
「んーん。この前ナンパしてきた子だよ〜」
梨恵は表情をくもらせる。この間まで、涙にくれていた子がもう次の男。なんとなく不愉快な気がしたのだ。
「総志朗のことはもういいの?」
つい言葉に棘が出る。奈緒はそれに気付いたのか、唇を噛んだ。
「寂しかったから、何度か遊んだよ。でも、今日は違うんだよ」
いつもはテンションの高いしゃべり方の奈緒だが、急に声のトーンが落ちる。しかられた子犬のようだ。
「あたし、総ちゃんが一番好きだよ。それは変わらないよ。だから、今日のデートはもう会わないって言いに行くためなんだ」
「そうなの……。意外に一途なんだね」
「意外」と言ってしまったことを、梨恵は失礼だったかなと奈緒の顔色を伺う。奈緒はそのことには気付いていないようで、明るく笑う。
「えへへ。そうかなあ」
どうやら褒められたととらえたようだ。梨恵は安堵のため息をついた。
にこにこと笑う奈緒はとても愛らしい。喜怒哀楽がすぐに表情に出る奈緒はいじらしくてかわいい。男の子はこういう子が好きだろうと梨恵は改めて思う。
「なしえっちはぁ、好きな人いないのぉ? なしえっちと知り合ってから、半年くらいたつけど、そういう浮いた話聞いたことないよ〜」
余計なことを聞くな。
梨恵は心の中で舌打ちをしながら、「好きな人」を考えてた。ふと浮かんでくるのは、光喜のあの不敵な笑み。そして、「守る」と言ってくれた時の真剣な瞳。
「いや、違う。好きとかじゃない」
ふってわいてきたような思いもよらない感情に、梨恵は否定する。けれど、焼きついて離れない。
「なになに?! やっぱり好きな人いるのぉ?! まさか総ちゃん?!」
「ちょ、総志朗は無いわよ。嫌いじゃないけど」
「ふう〜ん。あたしは初めて会った時から総ちゃんにズッキュンラブだよ〜」
奈緒はご満悦といった表情で満足げに言う。梨恵はあきれ返るが、ふと気になりだした。
奈緒と総志朗の馴れ初め。どうやってこの2人は出会ったのだろう。
「初めて会ったのっていつ? どんな風に会ったの?」
奈緒の頬が桃色に染まる。「うふふ」と含み笑いをして、嬉しそうに話し始めた。
「初めて会ったのは、中3の時だよ。だからええと、3年前! なしえっちの依頼の時とちょっと似てるかも。あたしもあの頃は死にたかったから……」
それは3年前。
総志朗は17歳。奈緒は15歳の時の出会いだった。
「ふわあ……。雪だあ」
雪が舞い落ちる2月。その年はとても寒い冬で、都内でも何度も雪が降っていた。
粒の小さなふわふわの雪は、その日1日だけでかなり積もりそうな雰囲気だった。
もうすでに5センチほど積もっている。東京近辺で5センチでも積もることは珍しい。奈緒はそれが嬉しくて、雪を踏みしめる。
いっぱいつけたはずの足跡は、降り積もる雪で、いつの間にか消えていた。
「死ぬには、なかなかいい日だね……」
マンションの屋上で、奈緒は鉄柵にかじりつく。高い柵ではあるが、乗り越えられないことはない。
涙がぽとりと落ちる。
中学卒業を控え、奈緒は地獄だった日々から抜け出せると信じていた。
なのに、それは幻想でしかなかったのだと、思い知らされた。地獄は続く、そんな宣告だった。
――あたしも、あんたと同じ高校進むから。仲良くやってこうね。
級友からの言葉。奈緒はその言葉を聞いた瞬間、死のうと決意した。
エンドレスに続く地獄から抜け出すには、もうそれしかないのだと、奈緒は気付いてしまった。
親は言う。
「今はつらくても、いつかいいことがあるから。頑張りなさい。奈緒は弱い子じゃないでしょ? 頑張れるでしょ?」
「いつか」なんて曖昧な未来に、「いいこと」があるなんて期待がなぜ持てるのか。何を頑張れば、この無限地獄から抜け出せるというのか。弱くはないと、なぜ言えるのか。
心の叫びに、両親は気付いてくれない。
奈緒は大きなため息をつき、一気に柵をよじ登る。
――飛び降りってね、意識がぶっ飛んじゃうから、本当に空を飛んでるかんじがするんだって。
そう言っていたのは誰だろう。思い出せない。いや、もうそんなことどうでもいい。
柵を越えると、地上はあと数十センチ先にある。一歩踏み出せば、それだけで死ねる。
現実から逃げて、どこかに行ってしまいたい。さようなら、弱い自分。
雪が降りしきる空を見上げると、どんよりと重い灰色の空がずっと先まで広がっていた。その灰色が自分の全てを押しつぶそうとしているみたいで、奈緒はぎゅっと目をつぶる。
「これでいいんだ。あたしがいなくなったって、誰も悲しまないもん」
心のどこかで死にたくないと思っているのか、はっと気付くと、右手は柵を強く握り締めていた。
首を振り、柵をそっと離す。寒さのせいもあるが、手はずっと震えていた。
「ごめんなさい」
たった一歩。その一歩で死ねる。
奈緒は両手で自身の体を抱きしめながら、その一歩を踏み出そうとした。
「何してんだよ」
誰かが、その肩をぎゅっとつかんだ。
生きるということを。
生きたいということを。
誰よりもわかっていたのは、あなただったね。
誰よりも死が間近だったから。
その心に、闇を抱えていたから。