A current scene5 誘拐
題名に「A current scene」とつくものは、現在(梨恵26歳)のストーリーです。
「うわあ! おさるさんだ!」
「浩人! 走るとこけるぞ」
総志朗と名乗ったその男と、梨恵の息子、浩人は動物園に来ていた。
浩人は猿を早く見たかったらしく、いの一番で猿山へと駆け寄る。
まだ3歳の幼い浩人の走り方はおぼつかなくて、いますぐにでも転んでしまいそう。
総志朗は浩人の手を取った。
一瞬驚いたように浩人は総志朗を見上げたが、頬を赤く染めてその手をぎゅっと握り返した。
「おさるさんてお尻赤いんだね!」
「浩人の尻は青いんだぞ」
「うそ!」
「ほんと」
浩人は驚いた顔で自分の尻を見ようとズボンを引っ張る。総志朗は思わず吹きだしてしまった。
その笑いをバカにされたと取ったのだろう。浩人は桃色の頬をふくらませ、キリンの方へと走り出した。
「浩人! はぐれるだろ」
慌てて浩人の手をまた取る。浩人の小さな手が、総志朗のごつごつとした手を強く握りしめた。
「ママの手はやあらかい。おじちゃんの手はかたいね」
「男だからね」
「ぼく、ママの手しか知らないよ」
「……浩人は、パパいないのか?」
浩人の口が尖る。空を睨みつけるように見て、総志朗の手を更に強く握りしめた。
「ぼく、パパがほしい」
総志朗は浩人の手を両手で包みながら、浩人の前にしゃがんだ。浩人との目線の高さが合う。
「いい子にしてれば、パパに会えるよ」
「いつ?」
「それはおじさんにはわからないけど」
「いますぐ会いたいよ」
「……キリン見に行くか」
浩人の目にみるみる涙がたまってゆく。叶わない願いだということを幼いながらに理解しているのだろうか。総志朗はたまらず、浩人を抱きしめた。
「今日だけ、おじちゃん、ぼくのパパになって」
「え?」
「おじちゃん、ぼくのパパ!」
浩人の手が、総志朗の首に回り、ぎゅっと抱きしめてきた。総志朗はふっと一息ついて、浩人を抱き上げる。
「いいよ。今日だけ、浩人のパパだ」
『昨日未明、殺害された女性の身元が判明しました。T区在住の看護士、瀬尾直子さん、39歳。香塚病院で勤めていた看護士との情報です。これで香塚病院に勤める医師が2人、看護士が1人と合計3人の殺人事件が起こっていることになりますが……』
昼の休憩時間。梨恵は副担任のため、教室ではなく、いつも職員室や近くの食堂で食事をしている。今日は同僚と一緒に食堂に来ていた。
そこのテレビで流れたニュースに、梨恵は箸を止めた。『瀬尾直子』。その名前に聞き覚えがあった。
それは、『彼』が犯人であるという揺るぎない証拠のように思えて、梨恵はじんわりと冷や汗をかく。
その時、梨恵のケータイがブルブルと震えだした。思わず背筋が伸びる。
「はい、もしもし」
『あ、浅尾さんですか?! あの、浩人君がいなくなってしまったんです! そちらに行ってないですか?!』
浩人が通う保育所からの電話だった。若い保育士の、あせった口調。梨恵は事態が飲み込めず、まばたきをくり返す。
「浩人がいなくなったって? どういうことですか?」
『ちょっと目を離した隙にいなくなってしまって。申し訳ありません!』
「すぐ行きます」
呼吸が荒くなる。浩人がいなくなった。幼い子どもだ。放っておいたらどんなことになるか、目に見えている。
「浅尾先生、私の方から学校には伝えておくから、すぐに行きな」
同僚の教師が、慌てた様子で梨恵の肩を叩く。梨恵はその好意に頭を下げ、走り出していた。
「浩人、見つかりました?!」
保育所につくと、担任の保育士が園の入り口の前で梨恵を待っていた。
「それが、まだ……。他の先生方も外に探しに行ってくれています。私の管理不行き届きです。どうお詫びすれば……」
「お詫びなんていいです。とにかく浩人を探しましょう」
ずり落ちてきたバッグを抱えなおし、走り出そうとした梨恵を保育士が呼び止める。
「あの! 浩人君を男の人が連れ出したって言ってる園児がいるんです。誘拐かもしれません! 警察に連絡しますか?」
梨恵の足がぴたりと止まる。
「どんな人だって言ってました?」
「それが園児の言うことなので、はっきりとわからないんですが。茶色のくるくるした髪の毛の男の人だと。たぶん、私と同年代位の男」
その保育士は、26歳。梨恵はまさかという思いと、そのまさかだという思いの狭間で困惑し、膝の震えを止めることが出来ない。
「警察には、まだ連絡しないで下さい。私も、家の方を探してみます」
まさか、まさか。脳裏をかけ巡る思い。
彼だとしか思えなかった。浩人の父、その人が。彼が浩人を連れ出したとしか、梨恵には思えなかった。
「浩人のパパはだあれ? どこにいるの?」
「パパはね、ママがすごく大好きだった人。今はまだ会えない、遠いところにいるんだよ」
「遠いところって?」
「ママには、行けないところ」
浩人にそう言った。彼は遠いところにいて、私には行けない。
ううん。
行けなかったんじゃない。
行かなかったの。