CASE5 愛人:06
篤利を家まで送った後、総志朗はマンションに戻り、料理を用意して待っていた。
今日はクリームシチュー。シチューのルーが入っている箱に書いてあるレシピそのままで作ったのだが、なかなかうまく出来た。
ほくほくと湯気をあげるシチューを軽く混ぜながら、鼻歌を歌っていると、玄関のドアが開く音が聞こえてきた。
「おかえり〜」
キッチンから玄関に向かって大声で呼びかけるが、反応が無い。
不思議に思いながらキッチンから顔を出すと、疲れきった顔をした直子がボーっと立っていた。
「直子さん? おつかれ。ご飯出来てるよ」
「え、えぇ」
びくびくとした態度の直子に、総志朗は首をかしげる。
直子は何も言わずに、テーブルにつき、総志朗が持ってきたシチューをじっと見つめたまま微動だにしない。
「クリームシチューはお嫌いですか?」
話しかけても直子は無言。仕方なく、総志朗は自分のクリームシチューをズズズとすする。
「あなたは」
意を決したように、直子は口を開いた。今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「あなたは知っているの?」
「何を?」
直子の視線が下がる。テーブルに置いた手をじっと見つめる。
「自分の中に、別の人格がいること……」
直子の声は震えていた。
総志朗はくわえていたスプーンをテーブルにそっと置き、直子を睨む。
「さあね」
まだ少ししか手をつけていないクリームシチューの皿を乱暴につかみ、シンクにドンと置く。
その音に直子が肩を震わせたのが、見えた。
「オレは、オレなんだ。たとえ、本物じゃなくても」
「わかっているの?」
直子の問いかけに総志朗は答えない。心臓の内側から冷たい水が溢れてくるような感覚が、総志朗を襲っていた。
『ごめんね、ケータイ忘れちゃったの。悪いんだけど、駅まで持ってきてくれない?』
次の日の朝、ソファーの上でブルブルと震えるケータイから聞こえてきたのは、直子の声だった。
出勤した直子からの電話。どうやら公衆電話から自分のケータイにかけてきたらしい。
総志朗は快諾して、コートをはおり、ケータイを手に取った。
白い真新しいケータイ。ポケットに入れようとして、総志朗はふと手を止めた。
「どうも怪しいんだよな、あの人」
生活感の無いマンション。生活していたとは思えない、汚れの無さ。
総志朗はどうもそれが気になっていた。
そして、昨日の直子の様子。何もかもを知っている、総志朗にはそれがわかった。
心の中で謝りながら、ケータイを開く。
右のボタンを押すと、リダイヤルのページが出てきた。
「香塚先生……?」
5件表示された内の3件が、『香塚先生』
――香塚先生、彼をどうするつもりなんですか?
記憶が泡立つ。知っている。『香塚先生』と呼ばれる人物を知っている。
けれど思い出せない。警鐘が聞こえる。思い出してはいけないと、心の中で騒ぐ声が聞こえる。
頭を抱えたその瞬間、ケータイから着メロが流れた。
「もしもし」
『まだ?! 遅刻しちゃうから、早くして!』
直子からの電話だった。総志朗は「すぐ行くよ」とうなずき、ケータイをポケットにしまった。
「黒岩さん、いる〜?」
クラブ・フィールドの表の入り口が開いている。聞かなくてもそこに学登がいるのはわかっていたが、総志朗は声を張り上げながら、中へと入った。
モップを片手に掃除をしていた学登が、「おう」と総志朗に笑いかける。その拍子にくわえていたタバコの灰がぽろりと落ちた。
「お前、奈緒ちゃん振って、なしえちゃんとこ出たんだって? 何やってんだ?」
「女とは恐ろしい生き物ですからね。深入りしちゃいけねんだよ」
わざとらしく真面目な顔をつくり、うんうんとうなずく総志朗の頭を、学登はモップの柄でゴンッと叩く。
「ガキがナマ言ってんじゃねえよ。で、また俺に頼みごとか?」
「頼みごとっつーか、聞きたいこと」
モップを壁に立てかけ、学登はカウンターに肘をつく。総志朗もそのそばに行き、カウンターに置かれたライターを転がして遊び始めた。
「香塚先生って、誰だかわかる?」
ライターをいじっていた手が止まる。学登の表情がみるみる変わっていくのがわかった。
「覚えてないのか?」
「なんとなくしかわかんねえ」
くわえていたタバコを灰皿に置いて、学登は大きく息を吸い込んだ。
「なんでそんな名前を突然……」
「依頼人の女のケータイに、その名前があったんだ」
息苦しい、総志朗はそう思った。空気が重たい。学登の表情は苦しそうだった。
「お前、狙われてるぞ。わかるな? お前だってあそこにいた時期があっただろう?!」
「でも、あいつは」
「明と統吾が押さえてるから平気だって言いたいのか?」
総志朗は迷いつつもうなずく。そんな総志朗を見て、学登は深々とため息をついた。
「いいか? お前は加倉総志朗として生きてきた。これからも、じーさんになって死ぬまで、お前は加倉総志朗として生きるんだよ。それは、明と統吾も望んでいることだ。負けちゃだめだ。あいつの意思に飲み込まれるな。いいな?」
学登の手が総志朗の肩を叩く。その優しさが、胸に刺さる。湧き上がる不安。漠然とした不安は、せまりくる夜の闇のように、光を消してゆく。
いつも感じている、自分の中にいるもうひとつの闇。守ろうとしてくれる、存在。
見え隠れする、まだ知らない黒いもの。
「わかってる。黒岩さん、わかってる」
もたげる不安は消えない。
あなたの感じていた不安は、恐ろしいくらいに巨大で、歪んでいて、凶悪だった。
あなたは、それでも生きようと、耐えていた。
人には芯があって、折れない芯があって、だからこそ強くいられる。
けれど、それは、強くもあり、もろくもあった。
誰しもがそうであるように。