CASE5 愛人:04
事務室のパソコンで経理をしていた学登は、脇に置いておいたコーヒーを一口すする。ブラックコーヒーの苦味が口いっぱいに広がった。
「あれから、8年か……」
自分のしたことがはたして正しかったのか間違っていたのか、学登は判断できずにいた。
8年前の決断。学登は少年を放っておくことが出来なかった。だから、助けた。
しかし、その少年を助けたことが、その少年、その周りの人々にとって『正しい』と言えたのか、8年たった今でもわからない。
自分のしたことが、いつか大きな代償をともなって返ってくるのではないかという不安がよぎる。
「学ちゃん」
物思いにふけっていて、物音に気付くことが出来なかった。事務室のドアを少しだけ開けて、奈緒が顔を覗かせていた。
「奈緒ちゃんじゃないか。今日は早いね」
時計を確認すると、もうすぐ15時になろうとしていた。高校生がうろつくにはまだ早い時間だ。
「うん。5限目さぼっちゃった。そこ、座っていい?」
奈緒の手が長テーブルを指差す。学登は「どうぞ」と椅子をひいてあげると、冷蔵庫から缶ジュースを取り出し、テーブルに置いてやる。奈緒は嬉しそうに笑って、椅子に座った。
「ねえ、学ちゃん」
「ん?」
パソコンの前に座りなおし、パソコンに映った数字を睨む。今月は売り上げが芳しくない。
「あたし、やっぱり総ちゃんが好き。この前ね、ナンパしてきた男の子と遊んだんだけど、物足りなくて。あたし、総ちゃんといたいよ。どうすればいいのかなあ」
「奈緒ちゃんは総志朗のことが本当に好きなんだな」
「うん!」
清々しいくらいに爽やかな返事をする奈緒。学登はパソコンの数字を睨むのを止め、奈緒の方に向き直った。
「総志朗には……奈緒ちゃんみたいな子が必要なんだよな。俺は総志朗に身を守ることばかり教えて、結局は独りにさせちまった。奈緒ちゃんみたいに愛情を注いでやれる子が、総には必要なんだ」
缶ジュースの商品名を奈緒はじっと見据える。外気にさらされた缶は水滴が付着し、それが奈緒の手をしっとりと濡らしていた。
「あたし、総ちゃんだけを見ていたい。総ちゃんのそばにいたいよ」
決意に満ちた目でそう言う奈緒が学登には輝いて見える。まだ若い少女の淡い恋心。それを応援してあげたいと思うと同時に、もたげる不安。
「総は不安定なんだ。今はまだ関わらないようにしていた方がいい」
「不安定?」
せっかくの決意をくじかれて、奈緒は不満そうだ。だが、学登はそれには気付かない様子で、どこか遠いところを見ている。
「8年か……」
ブラックコーヒーをグイと飲み込む。
「ヒモってやることねぇ……」
14時過ぎ。洗濯掃除も終わり、総志朗はやることがなくなってしまった。
ソファーに寝転がり、昼ドラを見ているが、これまで昼ドラなんて見ていなかったので、ストーリーが全くもってわからない。どうやら三角関係らしいことはわかった。
見渡すと、きれいに整った部屋。掃除をしたがちりもほこりもほとんど無い。やることがない。
どうしようもないので、とりあえず寝ようと目をつぶる。
ふと浮かんでくるのは、相馬優喜のあの不敵な笑み。人を見下した、蔑んだ目。
くっと奥歯を噛む。あの男が脳裏から離れない。
「寝くさってると嫌なことばかり浮かんでくる! ドライブに行くぞ!」
誰に言うでもなくそう叫び、マンションを出ると、日岡篤利からの依頼の時から借りっぱなしのベンツに飛び乗った。
今日は早帰りなのか、ランドセルを背負った子どもたちが集団で楽しそうに横断歩道を渡っている。
後ろ向きで歩きながら友達と談笑する子ども。ランドセルを弾ませ、友達を追いかける子ども。
その姿を総志朗はため息混じりに眺めていた。
――いいか? お前は人と深く関わっちゃだめだ。関われば、巻き込むことになる。
思い出がよみがえる。甘んじて受け入れた、忠告。そうしなければいけないことはわかっている。それでもやはり、寂しい。
コンコン、と突然車の窓を叩かれた。ハッとして窓の外を見る。
「久しぶりじゃん」
そう言って窓を叩いた人物は、車のドアを勝手に開けて乗り込んできた。
「お、おい」
驚きのあまり言葉をなくしていると、後ろの車からクラクションを鳴らされた。信号がいつの間にか青に変わっていたのだ。
「あおられてるじゃん。早く行けよ」
してやったりと笑う、その人物。あの時の暗い表情とはかけ離れた、明るい表情のその少年。
「篤利!」
そう、前の依頼人、日岡篤利だったのだ。
まっすぐに総志朗を見つめる篤利君や奈緒ちゃんが、私はうらやましい。
私にはもう出来ない。
あなたを見ることが出来ない。
でも、会いたい。
もう一度、会いたい。