CASE5 愛人:02
「総がいなくなった?!」
注いでいたビールがコップからドバドバと溢れて、学登は半歩下がった。床にビールがびちゃびちゃと落ちる。避けたのにズボンが濡れてしまったのだろう。学登は布巾でズボンを拭き始めた。
「事務室で待っててくれるかい?」
あせった様子でそう言う学登に従い、梨恵は事務室へと移動した。
総志朗がいなくなった次の日、梨恵は心配のあまり、学登の元へ訪れた。
学登なら総志朗の家出の原因を知っているかもしれないし、もしかしたら学登のところに総志朗が来ているかもしれない。
そんな淡い期待を抱いてクラブ・フィールドまで来たが、どうやら学登は何も知らないらしい。
何度もついたため息をつく。総志朗が相馬優喜と争ったあの日のことが、梨恵の頭から離れない。原因は相馬優喜の依頼にあることは間違いない。
「あれ? なしえっち」
誰もいないと思ってノックもせずに入った事務室には、制服のままの奈緒がいた。長テーブルにつっぷした顔を上げ、梨恵に向かって泣きそうな目で笑いかける。
「どうしたの?」
はれぼったい目を見れば、泣いていたことはすぐにわかった。思わず聞いてしまった梨恵に対し、奈緒は恥ずかしそうに目を手で隠した。
「うん……」
一度うなずき、言葉をつまらせる奈緒。どう言えばいいのかわからないといった様子で、唇を何度か噛み締めたが、意を決したように言葉を吐いた。
「総ちゃんにふられちゃった」
「え?!」
「……あたし、なにか悪いことしたのかな。もう、わけわかんない」
奈緒の目から涙が一筋こぼれた。頬を伝い、長テーブルにポツンと落ちる。
「総ちゃん、ほんとはすっごく寂しがり屋さんなんだよ。誰かがそばにいなきゃ、総ちゃん、きっとどこか行っちゃう。きっと、消えちゃうよ……」
「奈緒ちゃん……」
何も知らない奈緒のセリフ。だがそれは的中している。総志朗はどこかに行ってしまった。消えてしまったのだ。梨恵はそれを奈緒に伝える気になれず、奈緒の目が見れなくなってしまった。
「総ちゃん、誰かと深く関わること、すごく怖がってるの。だから、恋人とか友達とか作らないんだよ。でも……あたし、総ちゃんのすごく近いところにいるつもりだったの。なんでだろう。どうしてだろう。なんでこうなっちゃったんだろう……」
長テーブルに落ちた涙の滴は、一滴や二滴ではなくなっていた。それを制服の袖でさっと拭いて、奈緒は梨恵に笑いかける。
「なしえっちは、総ちゃんのそばにいてあげてね」
「奈緒ちゃん、それが」
総志朗がいなくなってしまったことを言おうとした時、ドアが勢いよく開いた。心配そうに顔をしかめた学登がそこにいた。
「あたし、帰るね。学ちゃん、話聞いてくれてありがと。なしえっちも、またね」
鼻をズズッとすすり、奈緒は立ち上がる。脇に置いてあったバッグをつかむと、学登の横をすり抜けて行ってしまった。
「梨恵ちゃん、何があった? さっき奈緒ちゃんの話は聞いた。何か、あったんだろう?」
学登の真剣な眼差しを前に、梨恵は胸の底で泡立つ気持ち悪さを押さえきれなくなっていた。
何かが起こる兆しを、梨恵は感じ取っていた。
「あ」
クラブ・フィールドを出た奈緒は、店の前に佇む青年に気付いた。
いつだったか、ナンパしてきた男――相馬優喜という名の高校生――がそこにいたのだ。
「あ、あれ」
奈緒の存在に気付き、優喜は目を丸めながらも、にっこりと微笑む。優しい笑顔だ。
「久しぶり。俺のこと覚えてる?」
思わず固まってしまった奈緒に、優喜はゆっくりと近付いてくる。奈緒は逃げるかどうか迷ったが、逃げようと思った時には、優喜は目の前にいた。
「泣いてたの?」
そう聞かれて、ハッとする。拭い忘れた涙の跡が頬にくっきりと残り、目は真っ赤に充血していた。
「今からどこか遊びに行かない?」
「そんな気分じゃないの。ごめんなさい」
「泣きたいくらい悲しいことがあったなら、楽しいことをした方が気持ちが晴れるよ」
「でも」
「話だけでも聞くよ。ひとりでいるのはつらいだろ?」
つり目がちの目が笑うととても優しそう。一見意地悪そうな優喜の表情がこの時はとても優しそうに見えて、奈緒はたまらなく甘えたくなった。
傷ついた心を癒すのに、こんな方法を取ることを嫌悪しながらも、心のどこかで求めていた言葉をかけてもらえたことが、嬉しくてたまらない。
「うん……じゃあ遊ぶ」
奈緒がそう言った瞬間、優喜はぱっと明るい笑顔を見せた。無邪気な笑顔が心を癒していくような気がする。
「公園にでも行こうか」
「うん」
優喜の手が奈緒の手を取る。一瞬ためらったが、熱を帯びたその手を離すことが出来なかった。
学登と話し終え、梨恵は家へと向かっていた。明かりのついていない家。誰もいないとすぐにわかるその家の姿が、悲しい。
奈緒の涙が心に浮かぶと、もらい泣きのように涙がにじんできた。それを押さえ、歩みを速めた時だった。
ポッとダイニングの明かりがついたのだ。
総志朗が帰ってきたの?!
涙がさっとひいていき、口元に笑みが戻る。
こんな時間に家の明かりがつく可能性はただひとつしかない。家の鍵を持っているのは梨恵と総志朗だけなのだ。
タッタッと走り、急いでドアを開けようとする。こういう時に限って鍵をすぐにはずすことが出来ない。フウと大きく息を吐き出し、鍵をなんとかはずすとドアを勇んで開け放った。
「おかえり」
「ただいま!」そう言いかけて、梨恵は口を塞ぐ。玄関先で梨恵を出迎えたのは、総志朗ではなく――光喜だったのだ。
目前にある罠にさえ、気付くことが出来なかった。
私も奈緒ちゃんも。
そして。
甘い罠に溺れるのだ。
罠と気付いた後さえも。