CASE3 犯罪者:07
今日も月明かりのみが光る。空のほとんどが雲に覆いつくされ、なんとか月だけが顔を出すことが出来た、そんな夜空。
その空の下、ひとり歩く総志朗。
路地裏は街灯も無く、月明かりだけしかない。表通りからの灯りだけが、唯一の人工の光源だ。
「いい加減、顔を出してくれてもいいんじゃない? 兄さん」
総志朗が目線をあげる。
紺色のズボン。清潔感漂う白いシャツ。ゆるめに巻いてある紺色のネクタイ。紺色のブレザー。少しはねた黒髪。意志ある強い瞳。
「……優喜」
顔を上げる総志朗のその左目の色が変わってゆく。緑が濃くなっていくように、茶色が薄くなっていくように。エメラルドグリーンに輝く。
「久しぶりだね。優喜」
ゆっくり、ゆっくりと、総志朗――光喜は笑みを浮かべる。楽しそうに。苦しそうに。目の前に立つ優喜に向かって、笑い続ける。
「時が来たんだね」
くっくっと笑う優喜。その笑い方は光喜とよく似ていた。蔑んだ、邪悪な笑い方だ。
「俺はまだ自由がきかない。お前にすべてまかせる。わかってるな?」
「大丈夫だよ。兄さんも頑張って」
それだけを言い残し、優喜は光喜の横をすり抜け、表通りの方へ向かう。
発光ダイオードの青い光が、点々と優喜の背中越しに見えた。
「おかえり。遅かったね」
ダイニングの4人掛けテーブルに座り、テレビを見ていた梨恵が振り返ることなく、そう言った。
梨恵の手元にはレポート用紙が白紙のままに置いてある。学校の課題なのだろうが、やる気はないようだ。
「梨恵」
「なに?」
「また会えたね」
総志朗らしくない声色。まさかという思いに駆られながら、椅子に手をかけて振り返る。
いつか見た、妖しい笑み。体が硬直してしまうのを感じる。
「こ、うき? 光喜なの?」
「よくわかったね。梨恵さん」
一歩一歩近付いてくる光喜。梨恵はこの場から逃げ出したいと思うのだが、足が動かない。光喜をただ見つめ続ける。まるで金縛りにあってしまったかのようだった。
「会いたかったんだ。もう一度」
「は? な、ど、どうして」
もう光喜は目の前にいる。なんとか動いた上半身だけを少しだけ後ろに下げ、拒絶の意志を表すのだが、光喜は楽しそうに梨恵を見つめ、すっと膝をついた。
「気に入ったからね。強情そうで、強気な目。馴らすことなんて出来ないじゃじゃ馬ほど、手懐けることができたら、最高じゃないか」
「なによ、それ……」
梨恵の真横に座った光喜の手が、椅子の背もたれに触れる。顔と顔の位置が近付き、梨恵は目線を下げ、顔をそらした。
「俺があんたを気に入ったら、迷惑? 総志朗が好きなのか?」
「総志朗は、そういう対象じゃない! 弟みたいな、家族みたいなものよ。そうじゃなかったら、一緒になんて暮らせない」
「じゃあ、俺を好きになってよ」
唐突に続く言葉の数々に、梨恵は口をパクパクさせることしか出来ない。
これは告白されたのか、それとも、全く別の意味なのか。思考回路がついていかず、まばたきの回数が増えてゆく。
「協力してくれよ。こいつらを消したいんだ」
「こいつら? 誰のこと?」
「わからない? この体は、俺のものなんだよ。なのに、勝手に我がもの顔でのさばる奴がいて、困ってるんだ」
もう片方の手が、梨恵の手首をつかんだ。梨恵は驚いて、びくりと震える。強い力で握られたわけでもないのに、突き刺さるように痛い。
「総志朗のことを言ってるの……?」
「さあ?」
「でも、こいつらって言ったわよね? 複数なの? どういうこと?!」
間近に迫る顔。男の肌とは思えないきめ細かい肌。それがわかるくらい、距離が近い。
「目の上のたんこぶって言葉、知ってる? こいつらは、まさにそれ。一生邪魔になる存在だ。あいつにとっても。俺にとってもね。消したいんだ。協力してよ」
吐息を吹きかけるように、梨恵の耳元で光喜は囁く。魅了の魔法をかけたような、甘い囁き。
「あいつ? なんなの? あんた、一体何なの?」
目を細め、光喜はニタリと笑った。楽しそうに。苦しそうに。
「やっぱり、気に入ったよ。梨恵さん」
寄せた顔を近づけ、梨恵の耳たぶに軽くキスをする。くすぐったいその感触に、梨恵は首をすくめた。その瞬間に目に入ったのは、光喜の左目。淡く光るエメラルドの瞳に囚われそうになる。
「あんたは俺を好きになるよ」
「なるわけない!」
「どうかな? 人の感情は、自分の思う通りにはいかないもんだよ」
立ち上がり、リビングの方へ2,3歩歩くと、光喜はその動きを止める。まるで時が止まったかのように、彼は動かない。
「光喜……?」
「腹減った」
「は?」
くるりと振り返った彼。間の抜けた疲れきった顔で、口をへの字に曲げて目をぎゅっとつぶっている。
「え? ええと、あの……」
「梨恵さん、オレの納豆、食べてないだろうね? オレの最近のお気に入りなんだからね。黒豆納豆!」
「……総志朗」
「梨恵さん、食い意地張ってるからなあ。オレの納豆は手出し無用だぜ」
右手を挙げて、左手で肘の辺りをつかんでひっぱり、凝りをほぐす。「納豆納豆」と浮かれながら、冷蔵庫に駆け寄る総志朗の左目はいつも通りの目に戻っていた。
「……総志朗」
「なに? まさかオレの納豆食べた?!」
「アホか! バカか! 誰が食い意地張ってるって?! あんたと一緒にすんな! あんたこそ、私のヨーグルトまた勝手に食べたでしょ?! 真ん中まで入ってたの覚えてるんだから! それがさっき見たら半分以下よ! 返せ! 吐いてでも返せ!」
「吐いたやつでいいの?」
「いいわけあるか! ばかーーー!」
「自分で言ったんじゃんかよ〜」
遠い、遠い異国の、澄んだ海のような、あの瞳。
右目と左目の色が違う、まるで猫のような、オッドアイ。
それを見るたび、違う色の目に違和感を感じて、そして、目が離せなくなる。
吸引力を持つ、その瞳に魅入られたのは。
彼の持つ、妖しい魅力に囚われたのは。
――待っていたのは抗えない甘い罠。
ちなみに作者のお気に入りは黒酢たれ梅風味の納豆です。めちゃうまいです。食べたことない方はぜひ。