CASE2 病人:12
「梨恵さ、ん」
剥いたりんごを皿に並べながら、梨恵は「ん?」と首をかしげる。窓から射す光を一身に受ける梨恵はとてもきれいで、彩香には輝いても見えた。
「もし……もし、総、君が、いなく、なってしまいそうな……時があったら、伝えてもら、える?」
「……総志朗がいなくなる?」
意味がわからないのか、梨恵はかしげていた首をさらにかしげた。首の角度は90度に近くて、彩香は「首、かしげすぎ」と笑う。
「いなく、なりそうなことが……あったらでいいの。……私が、生、生きていたことを、忘れないでって。そうすれば、私は生き続けられるから。私を生かすために、総君も、生きて。って、伝えて」
エレベーターに飛び乗ってはじめて、全身にびっしょりと汗をかいていたことに気付く。弾む息を整えようと、ふうと深呼吸して、梨恵は総志朗がいないことに気付いた。
どこで置いてきてしまったのだろう。
探しに行こうかと思った時、エレベーターは停まった。
「信じられない。あいつ……! こんな時にいなくなるなんて!」
一言悪態をついて、彩香の病室に向かうと、もうそこはもぬけの殻だった。
ベッドを整えていた看護士に聞くと、「霊安室にどうぞ」とだけ言われた。
一気に汗がひいていくのがわかる。
「彩香ちゃん、亡くなったんですか?」
「ええ……先程。霊安室の場所、わかりますか?」
看護士の気の毒そうな顔が、真実を物語る。梨恵は「大丈夫です」とだけなんとか言って、よろめきながら、病室を出た。
霊安室へ行くのは、2回目。祖父の時と、今回。
そんなに遠い道のりではないはずなのに、廊下が異様に長く感じる。
「早すぎるよ……彩香ちゃん……」
重すぎる足をひきずって、霊安室へと向かう。
「総志朗、ここにいたの……」
昼下がりの病院のロビーは、人がごった返していた。
順番待ちでロビーのソファーは満杯だったが、総志朗は壁際に座り、壁にもたれかかって目をつぶっている。
「会いに行かないの? 付き合うよ」
総志朗の前に跪くと、総志朗はつぶっていた目をゆっくりと開いた。揺らぐ、不思議な色をした瞳。それを間近で見た梨恵は、きれいな色だと改めて思う。
「オレは、いいよ」
「どうして?」
「……ただ単に認めたくないだけ。会ったら、死んだんだって、実感しちまう。会いたくない」
オレって弱いよな、とつぶやく総志朗の姿が悲しくて、梨恵はそっと、総志朗の膝に手を置いた。
「それに、彩香も、それを望んでる気がする。だから、いいんだ」
「総志朗……」
母親に怒られた子どものように、ただ肩を落とし、うつむくだけの総志朗。こんな姿を見るなんて、思っていなかった梨恵は、総志朗を慰める術が思いつかない。
「ねえ、総志朗」
やっと言葉が出る。膝に置いた手の先がひんやりしていた。
「生きるって、誰かの中に残っていくことじゃない? たとえ体が滅んでも、魂は生きていくんだよ」
祖父が亡くなった時のことがよみがえる。あの時の切なさ、やりきれない気持ち。
「総志朗は、無になるだけって言ってたけど、そんなの悲しすぎるよ。あんたが忘れなければ、彩香ちゃんは『無』にはならない。彩香ちゃんが生きたことを伝えていけば、『無』になっていくことはないんだよ。あの子の思いを、生きていた思いを伝えていけば、あの子はいなくならない。私たち、彩香ちゃんを生かしてあげようよ」
精一杯の励ましのつもりだった。支離滅裂。ただのきれいごと。けれど、梨恵は言わずにはいられなかった。
まるで人形に話しかけているような感覚だった。総志朗は、何も言わず、何も反応しなかったから。
ふと、総志朗は壁に預けていた体を起こした。膝にのせられた梨恵の手の上に、自分の手をのせる。
「梨恵さんは、優しいね。ありがとう」
「ううん」
なぜだか湧き上がる不安。総志朗の手がとても冷たかったせいもあるのかもしれない。それよりも、その表情が不安を煽った。
その目はどこも見てはいなかった。緑のかかった茶色の瞳は、ただぼんやりと虚空を仰ぐ。
「浅尾さん、加倉君」
いつの間にか、彩香の父、土田朋人が梨恵の後ろに立っていた。
「わざわざ来ていただいて、ありがとうございます」
「いえ。連絡してくださって、こちらこそお礼を言いたいです」
梨恵は慌てて立ち上がって、一礼する。
「顔を上げてください。あなた達には、感謝しています。彩香があんな穏やかな死に顔をしていたのは、きっと、あなた達のおかげだから」
そう言って、朋人は深々と頭を下げた。気丈な父親の姿に、梨恵は涙が溢れそうになる。
「オレ、何もしてないです。……何も。オレの方がよっぽど、あの子に救われた気がします」
梨恵の手をそっと離して、総志朗は立ち上がった。後ろを振り返り、白い暖かな光が差し込む窓辺に近寄る。
ガラスの向こうには、太陽に向かって手を伸ばすように大きく生えた楓の木。ほんのりと赤く色付いた葉が、1枚落ちていく。
「オレと彩香、似てたんだ」
「総志朗……」
そばに寄ろうとした梨恵は、それ以上近付くのをやめた。窓に、一筋涙をこぼす総志朗の顔が映っていたから。
看護士と患者が行きかう昼下がりのロビー。
小春日和の暖かな光が、梨恵と総志朗を照らしていた。
「総志朗。これ、彩香ちゃんからの手紙」
家に帰った梨恵と総志朗。梨恵は、自分の部屋の引き出しに大事にしまっておいた彩香の手紙を、総志朗に手渡した。
依頼料はあとでにしようと決めた。そういう現実的なものはあとでいい。
「手紙?」
「うん。その時が来たら渡してって言われて、預かってたの」
糊付けされていない封筒をあける。
半分に折られた封筒と同じ茶色の紙には、1行だけの文章が書いてあった。
もうペンを握る力も無かったのだろう。字はけしてきれいとはいえない。それでも、思いは十分に伝わってきた。
「総志朗、なんて書いてあるの?」
何も言わず、その便箋を食い入るように見つめる総志朗に問いかける。
総志朗はほんのり笑って、言った。
「ないしょ」
溢れ出る、愛しい気持ち。
出会えてよかったと、総志朗は思った。何度も、思った。
The case is completed. Next case……犯罪者
『大好きでした。ありがとう』