CASE2 病人:09
「こんにちは」
「……君は」
彩香の病室で椅子に座っていた梨恵は、スッと立ち上がった。
レーヨン素材の茶色のワンピースに、薄手のカーディガンを羽織った梨恵は、姿勢が良いおかげか、品のあるお嬢様のようだ。
「祖父がここに入院していた、浅尾梨恵です。何度かお会いしたことがあるんですけど、覚えていらっしゃいますか?」
病室に入ってきた彩香の父、朋人は梨恵にそう言われて、戸惑いながらもうなずいた。
「ああ、そうですね。覚えています。彩香と仲良くして下さって、感謝しています」
「お話があるんですけど、お時間ありますか?」
「話?」
「はい」
キッと朋人をにらむ梨恵。目に力が入ったためか、くっきりとした二重まぶたがいっそう深くなる。
「梨恵さん……」
様子を黙ってみていた彩香が不安そうに声をあげた。梨恵は彩香に向かって、にこりと微笑みかけ、また朋人に視線を戻す。
梨恵の強気な態度に、朋人は根負けして、「どういったお話ですか?」とため息まじりに聞いた。
一転して梨恵は笑顔を浮かべる。
「ここではなんですから、喫茶店にでも行きませんか?」
病院近くの古びた喫茶店。店内はノイズまじりのジャズが流れ、おいしそうなコーヒーの香りが漂っている。
そこに、梨恵と朋人は向かい合って座っていた。
少しずつ傾き始めた太陽の光が、ステンドグラスで出来た窓から差込み、テーブルにはその青や赤や黄で彩られた柄がそのまま映し出されている。
「お話って、なんですか?」
癖なのか、朋人はトントンと人差し指でブラックコーヒーの入ったカップを小突く。カフェラテに砂糖を入れながら、梨恵はその手を見つめていた。
「昨日会った、男の子のことなんですが」
「……なぜ、あなたがそのことを?」
「彼を彩香ちゃんに紹介したのは、私なんです」
「え」と一声あげて、朋人はカップを小突くのを止め、梨恵を凝視する。梨恵は申し訳なさそうに目を伏せた。
「申し訳ないです。彼が彩香ちゃんを連れ出したりするなんて、考えてもいませんでした」
「い、いや、そ、それは君が謝ることでは……」
展開についていけてないのか、朋人は声をうわずらせて、手を左右に振った。
「でも、私は彼がしたことを否定する気はありません。彼は彼なりに考えて、彩香ちゃんのためを想ってしたことですから」
「……彼がしたことは間違っていないと、言うんですか?」
「間違っている、間違っていない、そういう両極端な論理で言うなら、確かに彼のしたことは間違っています。それは彩香ちゃんの体のことだけを考えれば、の話です。でも、彩香ちゃんの心を考えれば、間違っていないと、私は思います」
梨恵は少しだけ体を前のめりにして、朋人の表情を伺う。朋人は梨恵の力強い言葉に圧倒され、口をほんの少し開けて、梨恵を見つめる。
曲の切れ目、ピアノと女の歌声が、消えてゆく。店内は一瞬静寂に包まれた。
「……何が言いたいんですか?」
「彼と……総志朗と彩香ちゃんを会わせてあげて下さい」
「だめだ!」
「どうして!」
ガタンとテーブルが揺れ、カフェラテのクリーム色の液体が零れ落ちる。
そんなことも気にせず、梨恵と朋人はにらみ合っていた。
店員が不思議そうに、2人の様子をちらりちらりと見てくる。
「彩香を危険にさらすような男に会わせられるか! それに、なぜそれを君が言いに来るんだ。本人が来るべきだろう!」
「本人が来たら、話さえしないでしょう? 私が彼に黙って勝手にここに来たんです」
冷静さを取り戻そうと、梨恵は深く息を吐く。テーブルにこぼれたカフェラテを、紙ナプキンでさっとふいて、一口飲んだ。
「……彩香ちゃんが、もうすぐ死んでしまうこと、総志朗だってわかってるんです。だから、彩香ちゃんが望むことをしてあげたいって、そう思ったんだと思います。危険なこともわかっていたと思います。でも、彼は、生きる力を彩香ちゃんに与えたかったんだと思うんです。彼の気持ちも、わかってもらえませんか?」
「……生きる、力」
「彩香ちゃん、最近元気だったと思いませんか? 総志朗のおかげだと、私は思います」
朋人は押し黙り、コーヒーカップを見つめる。ゆらゆらと揺れるコーヒーに、自分の顔がうつった。ひどくくたびれた、焦燥感に溢れる顔が。
「彩香は、死ぬんですね……」
今思い知らされたかのように、朋人はつぶやく。目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
「私の妻……彩香の母親も、病気で死んだんです。私は、ただ、それを看取ってやることしか出来なかった……何も、してやれなかった」
ぐっと握られた両手に、血管が走る。それをただただ見つめるだけの梨恵。
「彩香には、なにがなんでも生きてほしかった。あの子が成人する姿を見れる日を楽しみしてた。結婚する日や、孫が生まれる日を待ち望んでた。いつか誰かが、私に頭を下げて、『娘さんをください』なんていう日を、嫌だなと思いながら、心待ちにしてた。……それなのに、それなのに」
堰を切ったように、ぼろぼろと朋人の目から涙が落ちる。梨恵は、『父親』が『娘』をどれだけ想っているのか、それを目の当たりにし、言葉も出なかった。
……総志朗。覚えてる?
あの日、彩香ちゃんのお父さんの姿を。
あの、背中を。
似てるって、思ったんだよ。
あなたと。
寂しそうで、それでも、凛としたその後姿が。
すごく、似てると思ったんだ。