Route3 ギャンブラー:09
学校のチャイムの音が聞こえる。新しく住処にした家は、総志朗が思うより居心地がよくなかった。
気付かなかったのだが、高校がすぐそばに建っていたのだ。同年代の少年少女が笑い合いながら歩く姿を目の当たりにする度、喉が絞められる思いがした。
「オレ、ここ嫌いだわ」
「どうして?」
「出て行くよ、悪いけど」
女の家を渡り歩くのも慣れていた。後腐れなく付き合える女がどういう女なのかもわかっていた。
空しかった。足場のない場所でつかむ物もなく、しがみつきたい衝動に耐え、それでもまっすぐに歩く。
それは、独りで生きるために身につけた術。
見上げれば、薄紅色の風が吹く。
桜が舞う中、青いビニールシートの上で酒をかっくらう髭面の男がいた。
大木に咲き誇る桜の花々に似合わない男の姿に、総志朗は苦笑いする。
「お前、高校生か? 学校、サボったのか?」
ろれつの回らないしゃべり方で、男は総志朗に向かって缶ビールを掲げた。「飲むか?」と聞いているよう。
「言っとくけど、俺は仕事でここにいんだよ! なあ、飲まねえか? 独り酒は空しいんだよ!」
「仕事で独り酒かよ」
男の口から漂ってくる酒のにおいに、思わず顔をしかめる。男は赤ら顔をずいっと総志朗に向けて、ニタリと笑った。
「便利屋さんやってんだよ。場所取りの仕事してんの! 依頼人はまだ来ねえから、こうやって飲んだくれてるってわけよ」
「便利屋?」
「そうよ! 花見の場所取り、蜂の巣退治、ドブ掃除だってやるんだ。いわば、町の何でも屋だな。たっくさんの人に頼りにされる、最高の仕事だぜ! 俺は、町のヒーローなわけだ!」
黄ばんだ歯をむき出しにして爽快に笑うこの男が、総志朗にはなぜか格好良く思えた。仕事を誇らしげに語るその姿が、目に焼きつく。
「なあ、それって、オレにも出来る?」
はらはらと落ちる粒が、窓の外を白く変えていく。その前に立った総志朗の手には拳銃が握られ、その銃口は総志朗自身のこめかみにあてがわれていた。
凍りつきそうな冷気よりもなお冷たい鉄の塊は、総志朗の体をこめかみから侵食していくようにどんどん冷やしていく。
「総志朗! やめて!」
梨恵の顔が蒼白に変わる。その手が総志朗の元へと伸ばされ、途中で動きを止めた。
「梨恵、こうなること、わかってただろ」
眉間に力が入る。梨恵は身動きひとつ取らず、表情だけを強張らせていく。
「ユキオを止められるのは、オレだけなんだ」
赤い光とけたたましい音が窓の向こうから入り込んでくる。梨恵がビクリと体を震わせたのは、それがパトカーだと気付いたからだろう。
ゴクリと唾を飲み込んで、窓の外を凝視する。
だが、パトカーは赤い残像と木霊する音だけ残して、通り過ぎて行ったようだった。
「光喜は……ユキオを殺せなかった。チャンスはあったのに、結局は左目を傷つけることしか出来なかった」
そっと左目に触れる。そこには、光喜という人間がこの世にいた証が刻み込まれている。
「ただ一人の兄弟だから、殺せなかった」
大事に思うからこそ、その一太刀を浴びせることが出来なかった。ユキオがどんなに残虐な人間であろうとも、殺すことなど出来なかった。
「ユキオの最後の望みを、叶えられなかったんだ」
暗く濁った水の中で、ひたすらに願う。
闇の中で漂うことしか出来ず、死を願われた子供は、それを自身の願いへと変えた。
――生まれてこないで! 死んでしまえ!
脳髄を刺激する麻薬のような声。母の願い。度重なる言葉はユキオの心を刺し貫き、消えない傷だけを残して、どくどくと脈打つ。
「殺してくれればよかった。産まれたくなかった」
「殺してくれれば。殺してくれれば、こんなに苦しむことはなかったのに!」
「どうしてオレは生きてる!」
彼の慟哭が、死を願い続ける。
「復讐は、ユキオの生きる力だった。そして、最後の願いは、死ぬことだったんだよ、梨恵」
「やめてよ! 聞きたくない!」
総志朗の口から、白い息が零れる。
「ユキオは弱い人間だ。願っていても、自ら死ぬことなんて出来ない。オレもそうだ。今この瞬間が、恐ろしくて仕方ない」
笑ってみせても、それは慰めにもならない。張りつめた空気の中、梨恵は耳を塞いで目を伏せ、篤利は呆然と目を見開くだけ。
「ユキオの意思の前では、オレも光喜も明も統吾もなす術がないんだ。生きることを放棄できないユキオが、このまま生き続けたら……どうなるか、わかるだろ?」
死を報告するニュースの数々。ユキオがもたらした死の匂いはぬぐうことも出来ず、まき散らされる。
それはすでに実証された事実だった。
「今、こうしてオレが出ていられるこの瞬間が、最後のチャンスなんだ」
目をつぶれば、穏やかな光だけが目の前に映る。
見上げればそれは星になり、群青色の雲の中に姿を隠していく。
隣にいるのは、梨恵。
――ねえ、人は死んだら、どこに行くと思う?
ぽつりと落とされたその言葉に、総志朗は首をかしげることしか出来なかった。
――私、輪廻転生っていうのを信じたいな。
梨恵の依頼を終えたあの日。闇夜に佇む公園のベンチで、0時をさす時計を眺めながら、梨恵の言葉ひとつひとつを噛みしめていた。
死を迎えたら、無に帰るだけだと思っていた。人格の一人でしかない自分が、どうなることを『死』と呼ぶかわからなかったが、その時が来たら、闇に溶けるように消えるだけだと思っていた。
けれど、梨恵は言ったのだ。
「人はね、死んだらまた生まれ変わるの。それを繰り返すの。何度も、何度も……。大切な人のところに生まれ変わりながら」
だから、信じたんだ。