Route3 ギャンブラー:08
「梨恵さん!」
足早に進む梨恵の後ろを追いかける篤利は、携帯電話で学登を呼び出していた。ドアの向こうには、人の気配がする。
ユキオを見つけたら、すぐに連絡するように言われている。近付くなとも。
なのに、梨恵はそんなこと忘れたかのようにドアに手をかけ、行ってしまった。
「黒岩さん! ユキオがいた! すぐに来てくれ!」
学登が電話に出ると、篤利はそれだけ叫んで電話を切った。
「僕は愛されない子供だから」
彼はそう言っていた。
羊水の中で漂いながら、彼らは悲痛な母の叫びを毎日聞いていた。
「死んでくれ」と、「産めるわけがない」と繰り返し繰り返し母は泣いていた。
冬の寒い夜。病院のそばに捨てられたユキオ。
泣き叫ぶ彼を見つけてくれたのは、後に養母となる澤村麻紀子だった。
「ユキオ。あなたの名前はね、幸せに生きると書くの。幸せに生きるのよ、ユキオ」
願いはいつだって叶わないもの。その名にどんな願いが込められていても、彼には届くことはなかった。
そう『彼』には。
優しさは、ユキオが素通りしたとしても心のどこかに蓄積されていく。そうして生まれる人格。彼が無視したもので形成された人格は、彼の心の中で眠り続け、ある日、目覚めた。
ユキオが彼を揺り起こしたのは、ユキオには彼がちっぽけで弱々しく思えたから。
再び主人格に戻る時、容易に消せる人格だと、そう思えたから。
「総志朗」
目の前にいる梨恵に、総志朗は笑いかけていた。おせっかいな女だな、といつもながらに思う。
冷えた床に手をつき立ち上がる。
「ここは、十七、八の時に住んでた場所なんだ。奈緒と会ったばかりのころに、住んでた」
懐かしく思いながら、ぐるりと部屋を見渡す。
住んでいたのはずっと昔。あの頃よりもずっと煤けたビルのこの一室が、それでもたいして変わりなく存在することに感心してしまう。
「どんどん変わっていくように思えて、変わらないもんってあるんだな」
梨恵の後ろのドアから篤利が顔を出した。切羽詰った表情を浮かべ、総志朗に真剣な眼差しを送ってくる。
「篤利、オレの依頼、忘れてねえだろうな」
話しかけると、篤利は顔をゆがめて泣きそうになる。それに気付かないふりをして笑いかけた。
「わ、忘れてねえよ!」
「金は払ったんだからな。忘れんじゃねえぞ」
「わかってるよ!」
二人の間で交わされた依頼を知らない梨恵は何のことだかわからないと困惑していたが、すぐにまた総志朗をまっすぐに見つめ直す。
いつだって梨恵は、その目をそらさない。強く人を射抜く。
「総志朗、私、協力するわ。学ちゃんと海外に逃げて」
明が表に出ていた時、車の中でその話題が出た。総志朗はそれを知っていた。ため息だけをついて、ボロボロのソファーに腰を下ろす。飛び出た綿のところから、埃が舞った。
「ねえ、総志朗。それが一番だと思うの。ユキオはたくさん人を殺したかもしれないけど、総志朗は何もしてないんだもの。総志朗が主人格でいられるようにすれば、もう何も起こらないんだから」
「ユキオが現れなくなるなんて保証、どこにあんの?」
一歩近付こうと足を動かした梨恵だが、思いとどまったようにまた足を戻した。
いつの間にか出来てしまった壁に阻まれてしまったかのようだった。
「オレとユキオはいつもせめぎあってる。より意志の強いほうが顔を出せる。牽制しあって、監視しあってる」
雪が降り積もったあの日。マンションの屋上で、ちらちらと降る雪を掴もうと手をのばした少女。幻かと思ったあの光景。
奈緒とはじめて出会った日の思い出がよぎる。
「あたし、総ちゃんの恋人になれなくたっていいの。一緒にいちゃだめなの? そばにいてくれなくたっていいよ。あたしが勝手に総ちゃんにくっついてる」
そう言って、離れなくなった女の子。
「総ちゃんが好きなんだもん。世界で一番、好きなんだもん」
奈緒の底なしの明るさは、総志朗にとって夏の太陽のようだった。眩しいくらいに光を降り注ぎ、すべてを明るく照らし出す。
誰かと親しくなれば、それを狙って総志朗を追いやろうとする存在がいることに気付いていた。
ユキオを目覚めさせるために、犠牲を払うことを恐れない存在が、彼の中に潜んでいることに気付いていた。
奈緒の優しさに甘えていた。
何が起こったとしても「奈緒が勝手にそばにいたから」と、それを理由に逃げられると、甘えていた。
そんな逃げ方は出来ないことを、本当はわかっていたのに。
寂しげで、それでいて凛とした力強さを持った瞳が、梨恵に向けられていた。初めて会った頃から変わらないその目の力に、梨恵は切なくなる。
「総志朗なら、ユキオに負けないよ。絶対大丈夫。私が保証する」
あまりに根拠のないことを言ってしまったと、梨恵はうつむいた。それでも、そう言わずにはいられなかった。
根拠はなくても、そう信じている。信じたかった。
「私、総志朗にそばにいてほしいの。ずっとそばにいてほしいんだよ。あの家で暮らしてた頃に戻りたい。私が守るから。総志朗のこと、守るから」
懇願めいた言葉を繰り返して、溢れ出そうになる涙を我慢する。
「梨恵」
「私、総志朗のこと、すごくすごく大切に思ってる。あの頃からずっと、今だって変わらない」
「わかってる」そう言うようにうなずいて、総志朗は立ち上がった。
窓の外に向けられた目が、降り出した雪に注がれる。ずっと続く重い雲からひらひらと落ちる。
「梨恵。もうあの頃には戻れない」
それは切なる決意。
「オレには課せられた役目がある」
背中に隠された拳銃が彼の手には収まっていた。
「総志朗……!」
その銃口が向けられたのは、彼自身の頭だった。
戻れないことなんて、ずっと前から気付いていたよ。
それでも言わずにはいられなかった。
あなたの背中には重くのしかかるものがあって、それに負けじと前を見るあなたの姿。
凛とした後姿に、焦がれていた。
だから――
嘘でもいいから「戻れる」と、言ってほしかった。